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日本周遊紀行

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紀行(4)諏訪 「諏訪地方」



写真:諏訪・里宮で行われた「御柱祭り」



周遊中の今年(2004年)は諏訪の街とその周辺は7年ぶりの大舞台の地であった・・、 

諏訪の地は、本年は「御柱祭り」一色で、あの有名な「御柱祭」が、既にこの春季に行われた。

諏訪大社・上社本宮のすぐ横の路上にて、丁度、御柱を曳行する秋の祭りに遭遇した、聞けば、「里宮・小宮」の秋例祭で今年は本宮の御柱祭なので、それに倣って挙行しているとのこと。 

全国各地の諏訪系神社では同様に御柱にちなんだお祭りが行はれるらしい、それも秋祭りが多い。

諏訪大社は、諏訪湖の南北に上下・二社ずつ対座し、四ケ所に鎮座する神々である。 
諏訪湖の南側に上社(かみしゃ)本宮・前宮の2宮、北側に下社(しもしゃ)春宮・秋宮の2宮があり、計4つの宮から成る。
社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ大木が建っているほか社殿の配置にも独特の形を備えている。
全国に分布する分社は一万有余社を数えると言われ、我が家の近くや実家にも「お諏訪さん」「諏訪様」の通称で庶民の間に鎮座している。


神様は出雲系(大国主)の神であることに先ずびっくりであったが、全国的にも親しまれ敬まわれ巾広い信仰を有していて、歴史的にも当然のように古い。

祭神は建御名方命、八坂刀売命の夫妻神が奉られている。

建御名方命(タケミナカタ)は、大国主が「越の国」の国造りの際に知り合った奴奈川姫(ヌナカワヒメ・越後地方の女神)の間にできた子供で、諏訪の国の国造りの神である。 
建御名方命は地元の諏訪の美しい神、八坂刀売命(ヤサカトメ)を娶ることになる。
その後、両人は諏訪大明神となり、これが現在の諏訪大社のはじまりという。

上社は建御名方命、下社は八坂刀売をそれぞれ祀り、名前の「ミナカタ」は「水潟」の意で、元々は大国主や出雲とは関係のない諏訪湖の水の神であるとされる。

八坂刀売は下社の背後に聳える白樺高原や霧が峰の山の守護の神とされる。
記紀神話(古事記、日本書紀)に基づくと、大国主命の「国譲り」、つまり出雲王朝の支配権を大和王朝に譲渡するように迫った。 
これに対して建御名方命は国譲りに反対し、大和王朝の代表である武甕槌命(タケミカヅチ)と戦った。結果、戦に負けたことから諏訪まで逃れてきて、その地で王国を築いたということになっている。


「国譲り」では、大国主の出雲での末子の建御名方はどうしても承知せず、力比べを挑んだが、逆に投げ飛ばされて出雲から逃亡し、武甕槌が追って科野国(しなぬのくに)の洲羽海(すわのうみ)にいたるまで追い詰め、建御名方は遂に降参し、今後、この地からはどこへも出ないことを約束して命だけは助けられた。
つまり、父の意に背いて戦ったため、出雲では今でも「勘当された神」といわれている。

八百万の神が出雲へもう出るため、この月を「神無月」と言われるが、諏訪の建御名方の神は出席を許されず、この地方だけは「神有月」と言われる。

次回、「御柱祭」

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紀行(5)諏訪 「御柱祭」



写真:社殿前に立つ「御柱」



諏訪にまつわる「御柱・心柱」の意外性・・!、

その諏訪大社の数ある神事の中で,最も勇壮で熱狂的な祭りが「御柱祭り」である。 天下の奇祭・大祭として広く全国に知られている。
祭りは寅と申の年にあたる7年目毎に、諏訪地方の6市町村、凡そ20万の人々がこぞって参加し執行する大祭である。 

上社は八ヶ岳の御小屋山社有林から,下社は霧ヶ峰東俣国有林から,直径2m,長さ約16m,重さ約20tにもなるモミの巨木を8本づつ切り出す。 
上社は約20km,下社は約12kmの御柱街道を独特の木遣り唄に合わせて人力のみで曳き,各神殿の4隅に建てる。


祭りは4月の・山出し祭りと5月の里曳木祭り・秋には小宮祭りが行われ、山出し祭りでは、急坂を下る「木落とし」、川を越える「川越し」などの壮観な見せ場がある。また里曳木祭りでは騎馬行列や長持ち、花傘踊りなど時代絵巻が繰り広げされ、2ケ月にわたって諏訪地方は祭り一色に染まる。

秋に行われる小宮祭りは主に子供祭り(全国各地の諏訪大社系神社の祭り)が中心で,全国の市町村にある諏訪神社の御柱まつりで、大社同様に神殿の4隅に御柱を建てる。
基本的には4月に執り行われる御柱祭りの分社祭りである。

天に抜けるような澄んだ声で響わたる木遣リ唄,風にたなびく彩り豊かな「おんべ」(御幣・角材を鉋(かんな)で薄く削り、束ねて棒に繰りつけ、頂点部分から垂らした指揮棒のようなもの)、勢いをつける御柱ラッパ,そして晴れやかさと誇りに満ちた諏訪人の顔・・、心震わす天下の大祭が「御柱祭」である。


この天下の奇祭といわれる「御柱祭」は如何なる起源によるものか・・?史に興味のある御仁は尽きないところであるが・・、


古代人が神を祀るには二つの大まかな形があるという。
一つは岩に出現させる岩座(いわくら)信仰であり、一つは木に神を下らせる「ひもろぎ」(神籬:神事で神霊を招き降ろすために、清浄な場所に榊(さかき)などの常緑樹を立て、周りを囲って神座としたもの。

古来、神霊が宿っていると考えた山・森・老木などの周囲に常磐木を植えめぐらし、玉垣で囲んで神聖を保ったところ)信仰があったといわれる。
「ひもろぎ」信仰が発展し、人々は森の中の大きな木を神祀りの社として神社の原形をつくったという。

地鎮祭などで神官が中央に一本の青木を立て、天に向かって声を上げるあのきわめて自然な祭りの形が御柱に通じるともいわれている・・。

古代縄文期には、「大型掘立柱建物」というのがあり、青森の三内丸山遺跡で著名である。
高さ約20m以上の建物であったとも推測されている。
超高床の建物はどのような目的で使用されたのかは明確でないとされるが、「物見やぐら」や「灯台」ともいわれるが、主目的は「祭殿」などの施設を想定することができるという。 

諏訪大社の本家は出雲大社であるが、その本家・本殿の高さが威容なのである。

現在の出雲大社の本殿は24mであるが、一時は48mとも96mとも言われ、雲を突くような超高建造物で、その本殿造営に関係しているのではないかとの見方ができる・・?。 


諏訪大社は上下あわせて四社あり、それぞれの四本の柱は本社:出雲大社を模写したもので、本社に崇敬の念を表したものであると。 
本殿へ至る長い階段、そして階段と本殿を支える強靭な柱、重塔を除いた単一の建物としての最大の建物は、当然、大柱、心柱が必要なのである。

大柱は、切り出し、運搬、加工、据付と多数の人力、高等な技術が必要であろうことは言を待たない。
御柱祭りの行事は、社殿の造営様式と御柱曳建様式とに分かれ、主祭りは御柱曳建祭といわれる。これら諸々の造営工事関わる事象が祭事化したものであろう・・?。

祭りでは、それぞれの社に四本の柱を建てるので、計十六本の大木を建てることになる。


柱は、神の依代(よりしろ)である。 
御柱祭の起源は諸説あるが、四本の柱は宮殿を表すなど、諏訪大社では、本家・出雲大社の大柱の造営技術を受け継ぎ、自らの社殿の造営に生かしたものが現在の「御柱祭」となって継承し残されているとも・・想像できるのである。


日本建築で秀美なものの一つに「五重塔」がある・・、

五重塔は元来、仏塔の形式をとっており、内実はインドや中国の仏教によるものであるが、建築様式は日本独特の手法をとっている。日本では仏教的内実に併せて、”心柱のために造った建築物”であるともいわれる。

それは五重塔は主に2階部分に仏舎利、既仏像が安置されているが、3階以上の高層部は構造物のみで、それらは支柱が支えている。
その心柱が天空にとどいた処に賑々しく相輪が施してある。
ただ支柱や塔屋の構造物としての役割はあくまでも副的なもので、「心柱」が本来の目的であり、相輪(塔の最上層の屋頂に載せた装飾物)を飾り、支えるものであると。

つまり柱が重要視されいて、柱は聖なる「心柱」であり、「塔」そのものであって、構造物である塔屋は「心柱」を保護する為のものという。

先に神の依代である「神籬(ひもろぎ)」のところでも記したが、古来、高い神木には神が宿るという思想に基づき、「心柱」は高いものでなければならない。
高い所に神が宿り、高い垂直物(木)は神と人間とを結びつける桟(かけはし)であった。


柱は、神と俗界、即ち天上と地上を繋ぐものと考えられていて、それが為に「神」の事を一(ひと)柱、二(ふた)柱と数えることでも頷けるのである。


我が国の巨木信仰は仏教伝来期より、遥か以前の縄文時代に遡る。

かの「出雲大社」は24mの高さがあるが、その昔は48mとも96mとも伝説がある。出雲大社の主人公の一つは『柱』なのである。 又、かっては東大寺には東塔、西塔があり七重塔ともいわれ、総高が100mもあったと言われている。


仏教伝来以来、神仏混交が盛んになるが、その都度、高層の仏塔も数多く建てられる。
その建物、構造物の多くは神仏混交の象徴的建物であったのかも知れない。


序でに、木造の五重塔や多層塔は地震に強いといわれる・・、

1,995年の阪神・淡路大震災でも、兵庫県とその周辺にある高塔は一つも倒れなかったという。
建築方法の一つに「積み上げ構造」という「柔構造」の方法があり、五重塔などは正にそれであった。
五重塔に見られるような、その揺れによって地震力を吸収する柔軟構造の理論は、近年、日本はもちろん世界の超高層建築に採用されているという。

古代からの伝統的な木造建築である「心柱建築手法」の知恵は、最先端の建築技術に生かされているのである。

次回は、「信州松本」

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紀行(6)信州松本 「松本城」



写真:黒城といわれる信州・「松本城」



信州・「松本城」は別名・黒城と云われている・・、
 

西に北アルプス、東に美が原高原を望む信州松本平・松本市、その市街の中央に”平城”として厳然と聳え建つている。 
黒城とも言われる「松本城」は周囲の水堀に映えて、どの方位から望んでも実に優美である。
昔は「深志城」と呼ばれ、又、別名黒城、烏城とも呼ばれ、城は戦国時代の戦闘城として今もその形を留め残っている。

薄暗い板敷きの中に入ると、各層がかなり急な階段で結ばれ、各所に敵の侵入を防ぐ石落[いしおとし]や鉄砲狭間[てっぽうざま]といった防護策を施してある。

明治中期には天守閣は荒廃に任せ、倒壊寸前の状態であったが、有志により大改修が行はれ、その後も改装、復元を行いながら現在の姿になった。
 
築城は戦国期、家康の名参謀と言われ、後に家康を見限って豊臣秀吉の下に出奔した「石川数正」と長子・康長によるもの。 

犬山城、彦根城、姫路城とともに国宝に指定されている名城である。


ここで「石川数正」について・・

若い頃に読んだ、山岡荘八の大長編「徳川家康」に石川数正が多く登場し、かなり印象に残っている・・、内容は忘れたが。 

「徳川四天王」は酒井、本多、榊原、井伊と言われる、石川の名は無い。

徳川隆盛期の頃は家康参謀として、西に石川数正、東の酒井忠次の両名が主軸を成していた。 
石川数正は幼い日の家康(松平竹千代)と駿府の人質の頃に苦渋の生活を共にしていた仲で、家康は「数正は随一なり」と評した程で、いわば竹馬の友であった。 
三河武士団の中にあって、智謀と外交の冴えで家康の地位を固めていく。

この頃、天下の覇権を掌中にした豊臣秀吉と関東に勢力を置いた徳川家康との間に微妙な力関係や諸問題が発生する。 この間、数正は交渉役として徳川家の外交折衝を務めた。
しかし1585年、突如として家康のもとから出奔して秀吉のもとへ逃亡するのである。その訳の凡そは、秀吉に言い寄られ、次第に懐柔され、果ては周辺では既に親方・家康を裏切っているとの噂が立ってしまう。

その頃、家康は本拠を浜松に移し、いわゆる四天王がその中枢を固めていた。 
数正はというと岡崎城でいわば左遷された形で、西に秀吉、東に家康の様子を伺いながら、悶々とした日を送っていた。
外交通の数正も、交渉を重ねるうち「人たらし」といわれた秀吉の前に次第に傾注してゆき、遂に苦渋の選択の中、不忠の汚名を負いつつ秀吉のもとへ出奔して行ったとみられる、家康に謀反をおこしたのだ。

石川数正の真の狙いは何か・・?、真実は今でも謎とされているが・・、

秀吉の家臣となった数正は徳川家康が関東に移ると秀吉より信濃松本に加増移封されているが、秀吉の死後は当然ながら家康より冷遇されたという。

次回は、白馬村

紀行(7)白馬 「塩の道・謙信と信玄」


我が第三の故郷になった「白馬村」について・・、


白馬村は信州・長野の最北部に位置し、西側山岳部は三千米級の北アルプス北部が連なる。 
名峰「白馬岳」の白馬三山、五竜岳、唐松岳などに代表される山並みは、全国から登山者が耐えない。 
又、そこから伸びる八方尾根、遠見尾根、岩岳などの山腹には、わが国を代表するスキー場が南北に並ぶ。


その白馬村の中心を、今は副道となった「塩の道」が通っている。 
昔の国道である。


信州には、塩の道と呼ばれる街道がいくつか存在するという。

三州街道(伊那街道)とも呼ばれ、三河方面(赤穂事件の吉良家の領)から塩や海産物を信州方面へ運ばれた。又、秋葉街道(南信州街道)は太平洋側の相良から、その名も塩買坂を通って信州へ到った。

そして、こちらは松本から新潟・糸魚川市へ至る凡そ120kmに及ぶ街道で「千国街道」と呼ばれた。松本からは敬意を表して「糸魚川街道」と呼ばれ、越後・糸魚川側からは「松本街道」と呼ばれた。
これを通称「千国・塩の道」といっている。


日本海側から塩や海産物を海の無い信州に運び入れるために、又、信州側からは麻、タバコ、米など、中世〜昭和初期まで主として使われた生活の道である。 
こちらの特徴は、大名家などの武家による参勤交代などはなく、庶民によるボッカ(歩荷・人々が歩いて物資を運ぶ)や牛馬が通り、道路は蹄(てい、ひづめ)で踏み固められた生活物資の生活用流通路であった。

又、この街道は、「敵に塩を送った義塩の道」としての逸話が有名で、上杉謙信が敵将・武田信玄に塩を送るために通った道としても知られる。


武田信玄の本拠・甲斐は内陸地で、塩を他国からの輸入に頼っていた・・、

戦国期は、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、駿河の北条・今川義元(氏真)の時代である。 
上杉謙信と武田信玄(信州松本は信玄の支配下であった)が川中島で争っている時、同時期、武田は南の海に面した駿河・今川とも衝突してしまう。
そのため今川氏真は1567年、甲斐と駿河の国交を断絶し、往来を禁止をしてしまう。
氏真は信長に桶狭間で倒された今川義元の子である。 

このため駿河・今川から求めていた塩が甲斐に入ってこなくなり、信玄は本当に困り果ててしまう。
おまけに氏真は越後の謙信にも謀って、信玄に塩を送らないように依頼する。
ところが謙信は「そのこと卑劣なり・・!」と申し出を拒否し、更に戦闘中でもあるライバルにむかって、上杉謙信は「 貴公とは弓矢を交えても、塩を絶ってまで甲斐の人々を窮乏に貶めようとは思はない。今後は越後から好きなだけ塩や物資を送るので輸入してほしい 」と信玄にしたためたという。


ところで、地形的に信州から甲斐の国は南北に長い・・、

駿河から甲斐へは富士川を遡ると平坦で短いが、逆に越後から信州松本までは国内でも有数に海から遠い距離にある城下町であり、しかも険しい山中が大部分を占めている。
武士道精神にたった謙信の取り成しに、信玄が感服したのは言うまでもない。信玄公は「 我が亡き後、国危うければ越後に託せ、謙信は頼りになる男だ・・」と言い残している。 
実際に、多くの武将は武田家滅亡の後、越後に向かったという。


改めて上杉謙信の偉大さに敬服するのであるが・・、

実際、謙信が信玄に塩を送ったという話は歴史的に確証はされていないとも言われるが・・?。


因みに、現在、NHK大河ドラマ「風林火山」が放映中で、昨今の放送では謙信、信玄が遂に「川中島の合戦」へ突入したようである。

ただ元より、信玄がまだ信濃攻略以前の甲斐しか治めていなかった頃は、謙信はライバルとしての意識はしていなかったようである。 
謙信が信玄を敵視し始めたのは、信濃の主・村上義清が信玄に敗れて謙信に頼ったときからで、義清が前の領地を取り戻したいという、願いを受け入れて謙信は武田家と戦う意思を固めたのである。
このときの最初の戦が「川中島の戦い」で、それから10年ぐらいをかけて信玄とは川中島の戦いを5回も行うことになる。

この戦いを謙信自身は「義の戦いなり」と称している、つまり、領土的野心のある戦ではなかったのである。
ここにも謙信の「人となり」が表れているし、“義の人”のイメージが見えてくるのである。


余計だが、我が別宅はこの白馬「塩の道」に面している。 
そして毎年五月の初旬(連休)には、往時を偲んで「塩の道祭り」が行われ、大勢の人が練り歩く、中には当時の服装、仮装をして参加している人もいる。
第1日は、ここ白馬村の別宅で泊まりとし、 当地の塩の道温泉「倉下の湯」に身を浴し、明日からの鋭気を養う。


白馬村の温泉・・、

先ず、「塩の道温泉」とは、2,500万年もの間、フォッサマグナに封じ込められていた古代の海水が、凝縮されて眠っていた湯が噴出したものである。
湯は空気に触れると酸化されて褐色に染る。 
この吹き出た温泉が塩の道温泉である。 塩の道という名前に恥じず、一般の温泉の10倍もの塩分が含まれているといい、 倉下の湯は適温の「源泉掛け流し」の露天で開放感は抜群である。

ナトリウム一塩化物・炭酸水素塩温泉で特に塩分が多く含まれているので体は芯から温まり肌にいいと好評である。


又、白馬には、もう一種の天然温泉がある・・、

白馬八方温泉」で無色透明のアルカリ性単純温泉で、PH値11.28の全国トップレベルの強アルカリ性温泉である。 お湯は無色透明の無臭であるが、つるつるとして弱い石鹸を使っているような感触がある、これが強アルカリ泉の特徴であろう。

このアルカリ泉は「美人の湯」とも呼ばれて、刺激が強すぎて肌の弱い人はがカサカサになるような印象があるが、水の粒子が大変細かく浸透性が良く、非常にバランスのとれたお湯といわれる。

白馬八方温泉の源泉は、源泉温度50.2度、上流の「おびなたの湯」から更に山に上がった八方山塊の麓の蛇紋岩質の岩場から湧き出している微粒子温泉である。 
アルカリ質が余分な皮脂を取り去り、そのため肌の水分を余分に剥ぎ取ることなく易しく洗い流し、お風呂上がりがとても滑らかになる。

お湯は「美白を作るアルカリ泉」で美人の湯とも呼ばれている所以である。

 では又、明日から糸魚川   PARTTへ   第2日目へ 

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