本日・年月日 | 平成16年9月29日 | 延日数 | 10日目 |
出発地 | 羅臼温泉 | 出発時間 | 7時10分 |
到着地 | 道の駅「しらぬか恋問」 | 到着時間 | 17時00 |
天 候 | 曇天 | 体 調 | やや不調 |
走行道路名 | R335 道道950 R244 R243 R44 道道35 道道142 道道123 R44 道道53 |
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主移動地名 |
羅臼⇒野付半島 ⇒根室 ⇒納沙布岬 ⇒幌戸沼 ⇒霧多布岬 ⇒ 霧多布・琵琶瀬展望台 ⇒厚岸 ⇒釧路湿原展望台⇒釧路市 ⇒白糠 |
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現在(宿泊)地 | 道の駅「しらぬか恋問」(車中) | ||
道の駅(R) | 羅臼 スワンねむろ344 厚岸グルメパーク しらぬか恋問 | ||
温 泉 | 羅臼露天風呂「熊の湯」 | ||
名所・旧跡 | 羅臼温泉 野付半島(トドワラ・ナラワラ) 納沙布岬(北方領土) 幌戸沼(湿原) 霧多布岬(湯沸岬) 霧多布湿原 厚岸 釧路湿原 |
走行関係(km) | 燃料関係(L) | 金銭関係(現金円) | 金銭関係(カード円) | ||||
本日表示 | 3302 | 今回入油 | 29.0 | 本日支出 | 8612 | 本日支出 | 3502 |
昨日表示 | 2857 | 前回累計 | 239.1 | 前日累計 | 40246 | 前日累計 | 44079 |
走行距離 | 445 | 今回累計 | 268.1 | 本日累計 | 48858 | 本日累計 | 47581 |
総距離 | 2857 | 9回目 |
10日目:PARTT(羅臼、標津、別海) PARTU(根室と北方領土)へ 第11日目へ 日本周遊ブログ | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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紀行(60) 羅臼 「北方領土・国後島」我が領土、「北方領土」を返せ・・!!
知床の太平洋側に出て、「羅臼」の町並みを過ぎてから根室海峡に沿って国道335を進む。 別名「国後海道」(くなしりかいどう)というらしい。 その名の通り「国後島」が堂々と大きく、両端が霞んで見えなくなってしまう程の大陸の如きに横たわっている、距離にして20km内外であろうか。 北方四島の「国後島」であるが、地図を見ると東北部に爺爺岳という和名の気高い山(1822m)も書かれている。 そうなのだ・・、北方四島は明らかに日本の領土なのである・・!!、 北方四島は明らかに日本の領土なのだ・・!!歴史を辿って観よう。
尚、北方領土返還運動については、この先の根室が最前線になっている。 紀行(61)標津 「標津と野付半島」標津と野付の意外な歴史・・、 羅臼町域の境を過ぎてしばらく進むと、知床の山麓海岸から、やがて見通しの良い平坦部になり比較的大きな河川も多いようである。 植別川を渡って「標津」(しべつ)に入る、広々とした平野が益々広がってきた。 ポー川という何とも愛らしい名前の河橋を渡る。アイヌ語の「ポ」からで小さい・子供のような・・の川の意味らしい。 付近の標津川に比べ小さく、標津川を親に見立てれば子供のような関係に見立てて名付けられたものだと言えなくもない。 この辺りワタスゲが有名で、国の天然記念物に指定されている「標津湿原」が雄大に広がる。 一角には「三本木遺跡」などの案内標識もあった。 やはり続縄文(弥生期)からオホーツク文化の史跡、集落住居跡が多数発見されているという。 この辺り、全ての河川で「サケ」が遡上する・・、 湿原の平坦地をユッタリと多くの河川が流れる。 その町内を流れる殆どの河川で「サケ」が遡上するという。 「薫別川」や、特にサーモンパークのある「標津川」はサケの大群が遡上することでも有名で、TVやマスコミでも度々取り上げられる。 尤も町名になった「シベツ」の語源は、アイヌ語で「サケのいる大川、または本流」を意味するという。その標津は秋サケの水揚げは日本一を誇るといい、今はそのシーズンであろう。 成長したサケは、生まれ育った川を溯り産卵をして一生を終える。 そのサケを冬のキタキツネやヒグマの餌になり、北海道らしい自然の循環を繰り返しているのである。 また上流部は「オショロコマ」などの珍しい魚が多く生息しているという。 オショロコマは北海道独特の呼び名でイワナの仲間、主に北海道中部以北および東部の山岳地帯である石狩、知床、日高あたりの高山河川に広く生息分布している魚である。 然別湖などの封鎖された区域、カルデラ湖なのに棲むのを「陸封型」、他の河川の魚は「降海型」ともいうとか。 この辺りでも最大と思われるその標津川を渡る。 サケが喜んで這い上がってきそうな悠々たる流れであり、この川を渡ったところが標津の町並みが広がっていた。 嘗ては、この標津の町には国鉄線が走っていた・・、 駅の名前は何故か「根室標津」と称していたらしいが、国鉄・標津線がそれであった。 経路は釧網本線の標茶駅から分岐して中標津町の中標津駅を経由して、標津町の根室標津駅に至る。 泉川、西春別、計根別、上武佐の各駅であり、又、中標津駅で分岐し根室市の厚床駅で根室本線に接続する支線で、共和、春別、別海などの各駅からなっていた。 1933年(昭和8年)以来の開業であったが、やはり赤字路線らしく国鉄再建法の施行により一時JR北海道に承継されたが、1989年(平成元年)4月に廃止されている。 尚、根室標津駅から知床半島の付け根を横断する今の国道244号線と概ね並行した「根北線」(こんぽくせん)が通る予定だったらしい。 「根北」とは根室・北見のことであり釧網本線の斜里駅(現・知床斜里駅)から標津線の根室標津駅を結ぶ目的に建設される予定だった。 『 根室国厚床付近ヨリ標津ヲ経テ北見国斜里ニ至ル鉄道 』と明治期の鉄道法で定められており、戦争などの影響もあって1957年に斜里駅〜越川駅がようやく開通した。 その後、国道が開通するに及んで、沿線住民の流出などで乗客数は激減し、その存在意義は薄れ、北海道の路線の中で真っ先に廃止候補に上がり、わずか13年の短い営業期間で露と消えたという。 まさに幻の路線だったと言える。 廃線路線は鉄道マニュアが時折訪れては郷愁を感じているらしいが、時と共に風化され、やがては自然に還るのであろう。 ところで、標津の市街地の一角、国道272の交差信号の近くの海岸沿いに「船長の家」という民宿がある。 小生の息子が旭川市在学中の頃、冬季にこの付近で交通事故(自爆)を起こし、たまたま通りかかった宿の主人に助けられ、宿にて介抱されて大変お世話になったところである。 過る年、カミさんと道東旅行の際、立ち寄って挨拶お礼を申し述べた・・、が今回は目礼のみで通り過ぎることにする。 標津町、「民宿・船長の家」 宿の裏が根室海峡・・、 標津漁港から2kmという国後島を間近に望むことができる立地。 海釣り客が多いこの宿の一角には、囲炉裏を設けた居酒屋の食堂があり、そこでは、鮭のチャンチャン焼きと美味なるお酒で、ダイナミックな海鮮料理が楽しめる。 猟師の宿で、客室数 7室 宿泊定員 20名 宿泊料金 5000円から・・と、チョットコマーシャルでした。 トドワラ、ナラワラの枯れた風景が野付の特徴・・、 標津の町を抜けると間もなくの野付半島への分岐がある、その半島へ向かった。 この半島の雄大な自然については「温泉と観光」の項で述べるとして、驚いた事に、嘗てこの砂地の上には大きな街並みがあったという。 幻の歓楽街でその名を「キラク」という。 半島中央の森には擦文時代と思われる竪穴住居跡が多くあり、このひょろ長い半島に大昔から人跡が有ったことが標されている。 又、近世江戸期の頃の酒徳利(焼酎)や寛永通宝などが出土した、さらに付近からは嘉永の年号が入った墓石なども見つかっているという。 町史によれば今から200年前の江戸後期・寛政年間の頃においても和人が住みついていたことが記されている。 その根拠として地盤沈下(ナラワラ、トドワラの原因)をまぬがれている丘稜地帯には墓地や通行番屋跡が残存していて、墓地の規模から推測すれば少なくとも200人以上が埋葬されており、相当数の人口をもった街並みが形成されたようである。 現在、この一帯は荒涼たる草湿原にすぎないが、往時はトドワラ、ナラワラでも知れるとおり樹齢100年ほどの大森林が繁殖していて建物はこれら樹木によって造られ、通行番屋などは建坪130坪にも及んでいるという。 幕府によって野付崎に通行番屋が設けられ、北方至近の「国後島」へ渡る為の要所としての位置を占めていたらしい。 又、18〜19世紀の初め頃までは有数の鰊漁場でもあり、春になると根室場所の各番屋から出稼ぎにくる人々でにぎわい鰊番屋、蔵なども多数建てられていたという。 別海町に「加賀家文書館」なるものがある・・、 北海道の父と呼ばれる松浦武四郎との交友も深かったとされ、この地の歴史の表現者・加賀伝蔵の記録が多く残されているという。 江戸時代末期、別海町が根室場所と呼ばれていた頃、蝦夷地に夢を抱き秋田県の八森町から代々にわたり根室場所請負人の用人として働いていたのが加賀家の人達であり、文書館には彼等が残した文書が保管・研究・展示されている。 その中の一文に「 野付崎にはキラクという歓楽街があり、遊女もいたし鍛冶屋もあった 」と記されている。 野付は古来より人々が住み着き、江戸期には鰊漁で多くの人々が集まり漁番屋も多く、野付から国後島に往来する人々も多かったらしい。こうしたことが「歓楽街・キラク」としての残影を今に残しているのかもしれない。 しかし、「キラク」というのは地名なのか街の形容語なのか、日本語の喜楽・気楽が語源であるとも言われるが「幻の街・キラク」の如く定かではないともいう。 紀行(62)別海 「根釧原野」大平原地帯を「根釧原野」と呼んでいる・・、 野付半島から再び国道244へ戻ると間もなく別海町に入った。 この海道は野付国道、別名「北方ロード」ともいう、何も北国にあるから北方ではなく北方領土の「北方」なのである。 成る程、国道の傍らから時折、彼方に大きく横たわっている国後島が傍観できる。 暫く行くと国道の傍らに「別海北方展望塔」があつた。 広々とした駐車場が有って、そこに北方領土返還要求運動の高揚を期するために建てたのであろう・・、『四島への道・叫びの像』がある。 『北方四島は俺達のもんだ・・!!早く還せ・・!!』 と叫んでいるようである。 この像は山形在住の実業家・鈴木博六氏が北方領土返還要求運動に情熱を込めて像を建立、町へ寄贈したものであるという・・。 博六氏は、あの・・、 ”デンデンデン、デン六豆、うまい豆・・・”のコマーシャル・ソングでお馴染みの製菓会社で知られる、「でん六豆」の創始者であった。 無論、展望塔からは野付半島やオホーツク海に浮かぶ北方領土・国後島が一望でる。 更にR244の海岸線を南下する。 先程まで微かに遠望できた知床連山から派生している山並みは、すっかり姿を消し右手内陸方向は大平原地帯になっていた。平原といっても「マッサラ」ばかりでなく、起伏のある丘陵地、森林帯、草原帯と変化に富んでいる。 この大平原地帯を「根釧原野」と呼んでいる。この原野はいかにも北海道らしいというか道内でもでも最大級の広大さで、そのエリアは釧路より東部地域、阿寒から知床へ連なる高原、山岳地帯より南部地域一帯を指している。 この「根釧原野」(こんせんげんや)を地理上で観てみよう。 釧路湿原を含むその東側である阿寒から知床へ至る山々より南側の平地、丘陵地帯を指し、その「原野」を景観で見ると海岸から内陸へ向かって大きく「海岸草原」、「森と湿原」そして「牧草地」との三つの各層に分けられるという。 尤も、「根釧原野」と呼ぶとき使われる「原野」について北海道では、未開拓地や開拓まもない土地を明治時代以降に「原野」と呼んで来ている場合が多い。 特に釧路地方,根室地方の「原野」については人の手が入った二次林や森林伐採後でできた草原の部分と原始林、湿原や湖沼等の未開地の部分の両面をも指さしているようである。 つまり、原野といっても完全な原野ではなく、既に人の手が入った状態のものも「原野」と呼んでいるようである・・。 ここで「根釧原野」における各様相を地域的にみると・・、 先ず『海岸草原』とは、 花咲半島から落石岬(根室市)、恵茶人からホロト(浜中町)、湯沸岬(浜中町)、涙岬(浜中町)、尻羽岬(釧路町)などに見られる景観で、主に北太平洋シーサイドラインと呼ばれている道道の周辺にて良く見られる。 『森』とは、 東から根室の温根沼西部に拡がる温根沼国有林、霧多布湿原西部から火散布沼、藻散布沼、厚岸湖を囲む厚岸道有林、別寒辺牛川中流にあるパイロット・フォレスト(パイロットファーム:実験農場、と同じ意味合いで、昭和31年頃から国策で進められた大規模造林地のことで場所は厚岸町の奥 標茶町との境あたりを指す)、上尾幌周辺に拡がる尾幌国有林などが森林景観として見て取れる。 『湿原』とは、 湖沼や湾が自然に埋め立てられた湿原と河川流域湿原がある。 湾・海岸に面している風連湖、温根沼、火散布沼、厚岸湖などの周辺にある湿原や霧多布湿原は前者であるが、河川の中上流域に広がる流域湿原は広大で釧路湿原、厚岸湖に注ぐ別寒辺牛川(べかんべうし)、上流域に拡がる別寒辺牛湿原、風蓮川流域湿原、標津湿原などである。 その河川は釧路川とその支流、別寒辺牛川、風蓮川、ヤウシュベツ川、西別川、床丹川、春別川、標津川などである。 又、『牧草地』としては、 主に国道44号線の北側で阿寒、知床へ続く山々の麓まで拡がり北海道は無論、日本の代表的な一大牧草地、酪農地帯を形成しているのである。 次回は根室・「風連湖や春国岱」について・・、観光編Tへ |
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