14日目:温泉と観光T(日本三景・松島) 観光編U(松島) へ 第15日目へ 写真集 | |||
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温泉と観光(34) 日本三景「「奥松島」松島に至る前に、先ずその一角とされる「奥松島」について・・、 日本三景といわれる「松島」であるが、その範疇は何処から何処までとは特に決められてはいないようだ。 大まかには松島湾内外にある大小260余りの島々と湾周囲を囲む松島丘陵も含めた地域辺りを指しているようである。 一般に松島を観光する場合、列車では仙石線の「松島海岸」か、南側の海岸に位置する大駐車場に車を置いて、五大堂を中心とする海岸エリアと瑞巌寺を見学するのが普通のコースであろう・・?。 時には、遊覧船にて船上より島々を眺めるか、高台の松島丘陵から「松島四大観」(まつしましだいかん)と呼ばれる景勝地点から奥松島を含めた全体像を眺めるのが良しとしている。 ところで日本三景・松島に接する「奥松島」(東松島ともいう)は、一般観光客には馴染みは薄いようである・・、 だが本当の松島の良さはこの奥松島に有るとも言われている。 奥松島の一島・・、白浜の円月島に似てません・・? ここで、奥松島について・・、 仙台側から見て、「松島」の更に先の方にあることからそう呼ばれている。 松島湾の北東部一帯、潜ヶ浦水道から大高森の周辺には無数の島々が点在する。その中でも秀悦なのが日本三大渓(岩手県の猊鼻渓と大分県の耶馬溪)の一つといわれる「嵯峨渓」であろう・・!、 太平洋の荒波と風雨に侵食された絶壁や奇岩が連続し、女性的な松島湾の景観と対照的に男性的で荒々しさが魅力である。 大自然が作り出す島々の景観はここにもあり、この嵯峨渓は宮古島からでる遊覧船でも堪能できる。 変わった所では、竹浜というところに「鳴き砂」(砂の上を歩くとキュッと鳴る砂をいい、急激な砂層の動きにより表面摩擦を起こして音を出す現象)の浜辺もあり、手前の野蒜海岸は波の静かな砂浜で、夏場は海水浴場として人気があるという。 又、他にも、松島の四大観の一つである「大高森」の展望地やその周辺自然散策などがあり、他にも家族連れや合宿などの施設が近くに沢山あり、観るなら「松島」、遊ぶなら「奥松島」とも言われる所以である。 中でも宮戸島には里浜貝塚という貝塚遺跡がある。 里浜貝塚は、縄文時代前期(約6000年前)から弥生時代初めまでの約4000年間の遺跡といわれ、貝塚は島の標高20-40mの高台に存在して現在の海岸線からは離れているという。 一般に、縄文遺跡は今の海岸線から遠く、高い位置に在るといわれる。 それは地球的な温暖化による縄文海進のために、現在よりも海水面が高かったことを意味しているという。 ところで松島の成因については・・、松島丘陵が海にまで達し、それが、ある時期に沈水して出来た沈降地形であるといわれる。 溺れ谷(陸上の谷が、海面の上昇や地盤の沈降で海面下に沈んでできた湾)に海水が入り込み、山頂が島として残った、この状態が松島湾を形成したものともいわれる。 ただ、縄文期の頃は、現在と比して縄文海進のため、更に海面が20m以上も高かったことから、今の松島の小島などは当然海の底であったろう。 従って、当時の縄文人は今の松島とは全く異なった風景を眺めていたのでは、と変な空想を巡らすのであるが。 次には「本松島」 温泉と観光(34) 日本三景「松島」写真:絶景・・!!松島 芭蕉が、口をアンぐりと開いたまま、声が出なかったという「松島」・・、 嵯峨渓や奥松島を抱えた風光明媚な「鳴瀬町」(現、東松島市)を後にして、ようよう本松島へ来た。 あいにく雨模様であるが・・、雨の松島も良いもんだ・・?と強がりの一人合点して、例の海辺の大駐車場に車を置き、先ずは「五大堂」へ向かった。 雨に霞んだ日本三景の松島も実にいい・・!!。 万葉の昔より風光明媚で知られ、俳人「松尾芭蕉」も賞賛した松島は、やはり何回見ても素晴らしい。 『 松島や ああ松島や 松島や 』 の句が広く知られている。これが芭蕉作と言われることがあるが、実際は、江戸時代後期に相模国(神奈川県)の狂歌師・田原坊が作ったものと言われる。 『 松島や 鶴に身をかれ ほとゝぎす 』 曽良(芭蕉の弟子、奥の細道の同行者) 実は、芭蕉は、「奥の細道」の中で松島の句を示していない・・、 『 絶景にむかふ時は、うばはれて不叶 』 絶景を眺めると、感動の余り思うように句が作れなかったという。 又、中国文化人の間では、「景にあうては唖す」(絶景の前では黙して語らず)に感化され、意識的に句を示さなかったとする見方もあるという。 「絶景唖然」・・・、絶景を見ると感情が先走って、言葉が出てこない・・、その通りであろう・・!!。 ”思わず身を乗り出す”の対極的な語彙に、最近の流行語に「引く」という言葉がある。 一般には引っ張る(pull)、 綱を引く、ボートを綱で引く、荷車を引く、人のそでを引くなどの意味があり、「身を引く」も第一線から身を引く、事が表沙汰にならないうちに身を引いた。 等であるが、驚いて思わず身を引くと言う意味も有る。 最近の若者は、この意味を「引いちゃうよね・・!!」と表現するらしい。 絶景を見たとき、一瞬「身も心も引いてしまう・・」、おそらくこの様な絶句の状態になってしまうだろう・・。 御存じ「松島」は「日本三景」の一つである。 日本三景とは、ご存知、ここ松島町の「松島」、京都府宮津市の「天橋立」、広島県廿日市市の「厳島(宮島)」の三つの名勝地のことで、儒学者・林春斎が全国を行脚した際の著書「日本国事跡考」に、卓越した三つの景観として「丹後天橋立、陸奥松島、安芸厳島、三処を奇観と為す」と書いたのが始まりと言われている。 その景観は海と緑が対象の妙をなし、その美しさは人々の心の琴線に触れる。 海に囲まれた国、日本を象徴するこれらの絶景は、まさに天が我々に与えてくれた自然の恩恵であり、古き時代から数々の歴史の表舞台に登場し、和歌や文学にも登場してきた日本三景で、いつの世も代わることなく人々を魅了する、日本人の旅の心の原点である。 各三景地には記念碑が記されているが、面白いのは、其々紹介する順序が違っており、天橋立では林春斎の原典通りの「天橋立、松島、厳島」、松島では東から「松島、天橋立、厳島」、厳島では西から「厳島、天橋立、松島」の順となっていることである。 2006年、天橋立、松島、宮島の日本三景観光協議会では、林春斎の誕生日の7月21日を日本三景の日と制定している。 「林春斎」は、江戸時代前期の儒学者、父は林羅山(家康に抜擢され、23歳の若さで家康のブレーンとなる、2代将軍徳川秀忠〈家康の3男〉に講書を行う)、名は又三郎・春勝、号は鵞峰(がほう)、父とともに幕府に仕え、幕政に参画した。 三代将軍徳川家光に五経(四書五経:ししょごきょうともいい、儒教の経書の中で特に重要とされる九種の書物の総称)を講義し、訴訟関係・幕府外交の機密にもあずかった。 日本史に通じ、父羅山とともに「本朝通鑑」「寛永諸家系図伝」など幕府の初期における編纂事業を主導し、近世の歴史学に大きな影響を与えた。 小生も、この後、西日本の沿岸を巡ることになるので、他の2景勝地、安芸の宮島(厳島)、丹後天橋立の地を訪れることを楽しみにしている。 因みに、日本三景にならって実業之日本社主催による「新日本三景」の選定が行われ、全国投票の結果北海道七飯町の「大沼」、静岡県清水市(現静岡市)の「三保の松原」、大分県中津市の「耶馬渓」が選ばれているという。 次回は、松島「五大堂」 温泉と観光(34)松島 「五大堂」松島の「五大堂」は坂上田村麻呂が創建した・・、
松島・五大堂 今日は10月3日の日曜日であったが・・、 雨の日とはいえ、さすが天下の松島である、大勢の人が巡っている。 赤い狐狸橋(下が透けて見えるので、透橋ともいうらしい)を渡ると「五大堂」である。 如何にも歴史を感じさせる瀟洒な建物で、松島の島々を見据えて鎮座している。 平安初期、坂上田村麻呂が蝦夷征伐のおり、毘沙門堂(毘沙門天=四天王の一つ、男の神、戦・勝負の神、北方を守護する神)を建立したのが最初といわれる。 平安初期の828年、慈覚大師円仁が瑞巌寺を開いた際、五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになったとか。 桃山様式の美しい木造建築で、下屋部分の周囲に12支の彫刻が施されている、これは太陽の方向に正面を向いた時、その時刻を表すともいう。 国指定重要文化財 坂上田村麻呂(さかのうえの・たむらまろ)について・・、 奈良後期から平安初期、日本の国土は概ね稲作文化が浸透していた。 ところが東北北部地域、とくに津軽地方以北は狩猟や漁業、山畑農菜等、想像以上に豊かだったので、そのまま縄文の食文化が継承されていた。 当然、何かと手間の掛かる米作りとは相容れぬもので、西方(西日本地方)とは食文化をはじめとする文化摩擦が生じていた。 これらの住民は、主として先住民といわれた蝦夷民族(えみし)・アイヌであったのだが。 この頃時代によって様々であるが、奥羽の先住民族である蝦夷と大和朝廷との関係は、国と統一と西方文化を広めるため、蝦夷との争乱がしばしば記録に出てきている。 都からの援軍、増派が度々されているが、蝦夷側の抵抗が激しく、支配下に収めることに難渋していた。 そんな中、蝦夷鎮圧と西の文化(稲作文化)の融合を推し進めるべく登場したのが「坂上田村麻呂」である。 朝廷は、坂上田村麻呂を将軍に武装した”稲作キャンペーン集団”ともいうべき大軍を派遣し、この時の拠点を一旦、多賀城に置いている。 この時期、田村麻呂は休息時、近くの絶景地・松島を見物遊山に出かけている。 そして、その松島の余りの美しさに、この地に戦勝祈願を兼ねて「毘沙門」のお堂を設えたという。 今の五大堂である。 彼は戦においても、相手の事情を理解しつつ、やみくもに武力を用いることがなかったといい、そのため戦後はよく治まったとされている。 また彼の人柄は「怒れば猛獣も倒れ、笑えば赤子もなつく」という魅力に富んだ風貌伝説とあいまって、武将であるのに寛仁の心をもった人といわれ、敵対将軍としては、珍しく、いつのまにか津軽の人たちにも染み込み、慕われてきたといわれる。 津軽の「ねぶた祭り」は、この時の戦の駆け引きに使われたのが起源とされている。 祭りは、坂上田村麻呂が武者人形として、毎回のように登場していることは周知である。 因みに、この時代に都は長岡京から、延暦13年(西暦794年)、京都の「平安京」に遷都されている。 天皇は桓武天皇の時期であり、その3年後に蝦夷は平定されている。 坂上田村麻呂が、初めて「征夷大将軍」の称号を授かった時でもある。 田村麻呂は、大陸渡来人の子孫ともいわれる。 中国が漢の時代、後漢・霊帝(2世紀の戦国時代)の後裔と言われ、応神天皇の時代に日本に帰化した阿智王(阿智使主)を祖とすると伝わる。 坂上氏の本拠地は、大和国添上郡坂上であるとされ、代々、坂上(さかのうえ)氏を名乗っている。田村麻呂は、8世紀の後半の791年以降蝦夷征伐を行い、797年「征夷大将軍」となり、蝦夷の平定を進めている。 征夷大将軍とは、その名称の通り「蝦夷を征伐する」ための朝廷から授かった臨時の役職名であった。 田村麻呂以降は使われることがなかったが、平安末期から鎌倉創世記、源平の争いで源頼朝がこの役職を希望し、1192年朝廷から征夷大将軍を任じられている。 頼朝以降の征夷大将軍は、もっぱら武家の頭領の地位を表す役職になり、江戸末期1867年の「王政復古」の政令で廃止されるまで続くことになったのは周知である。 引続き「坂上田村麻呂の追記」 観光編U へ 第15日目へ |
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