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本日のデータ・記録

本日・年月日 平成16年9月24日 延日数 5日目
出発地 浅虫温泉 出発時間 7時40分
到着地 湯の川温泉 到着時間 18時45分
天 候 晴⇒雨⇒晴⇒雨 体 調
走行道路名 R4 R279 R338 航路
主移動地名
浅虫温泉⇒野辺地 ⇒よこはま ⇒むつ・大湊 ⇒川内 
⇒脇野沢⇒仏が浦 ⇒佐井 ⇒大間埠頭 ⇒大間崎 
 ⇒函館 ⇒湯の川温泉
現在(宿泊)地 湯の川温泉「ホテル新松」
道の駅  「よこはま」  脇野沢
温 泉 浅虫温泉   湯の川温泉 
名所・旧跡 下北と会津藩士  海峡ライン(R338)  仏が浦  大間

写真集

走行関係(km) 燃料関係(L) 金銭関係(現金円) 金銭関係(カード円)
本日表示 1462 本日入油 19.8 本日支出 14970 本日支出 7500
昨日表示 1291 前回累計 101.3 前日累計 3841 前日累計 26382
走行距離 171 本日累計 121.1 本日累計 18811 本日累計 33882
総距離 1462 . 4回目 . . . .

5日目:PARTT(浅虫温泉、野辺地、むつ)  PARTU(下北;脇野沢、佐井、大間)へ  
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紀行(32)青森・「浅虫温泉」


浅虫温泉・NTT保養所「善知鳥荘」・・、

青森市街を遠目に見ながら、国道4号線のバイパスが本線へ出たと同時に海岸に出た。
陸奥湾・青森湾に間もなく沈もうとする。
大きく、黄色く輝く黄昏光が全体の風景とマッチして綺麗である。
小さな岬の「善知鳥崎」を左に見ながら、間もなく「浅虫温泉」に着いた。
 

浅虫温泉は、陸奥湾に面した風光明媚な県内随一の温泉地で、津軽藩主も来湯した由緒ある温泉である。

東北本線の浅虫温泉駅を中心にして温泉街が広がっている、珍しい温泉地である。 
本線駅が温泉街の中心ということで人気もあり、青森の奥座敷とゆうことで平日でも大盛況だったらしい。
 
昔から古い温泉地として全国に知られており、平安時代の終わり頃(1190年ごろ)名僧慈覚大師が奥州巡教の折、傷ついた鹿が湯浴みするのを見て発見されたと伝えられている。 
その地名はかつて住民が温泉で織布の麻を蒸していたため「麻蒸」とよばれ、後に火難をおそれて火に縁のある文字「蒸」を嫌い「浅虫」になったといわれている。

温泉街は、山手と海手に分かれ、温泉の発祥地、山手は昔ながらの風情を残した旅館があり、海側には規模の大きなホテルが連立している。 
古い歴史の面影は現在の「柳の湯」に見ることができ、ここは津軽藩の本陣のあった場所とされ総ヒバ造りの浴槽は津軽の殿様が作らせたものだという。


陸奥湾に浮かぶ湯島をシルエットに海を染めていく夕景が浅虫温泉一押しの景観であるが、古くからの浅虫を偲ばせる山手の小路の夕暮れ時も温かな情緒を醸し出している。

又、ここは海沿いのリゾート地にもなっている、海釣り公園や水族館をはじめ、多様な施設が揃っているようだ。海上にお碗を伏したように浮かぶ夕焼けの「湯の島」が実にいい。 


NTT保養所「善知鳥荘」はそんな温泉街の中にあった・・、


一息入れて、早速湯船に飛び込む、お湯は無色透明でサッパリ感、あまりのサッパリで温泉感が感じられない。
源泉は70℃だそうだが、湯口は適温、流入量が少ないのは気になる。泉質はナトリウム・カルシウムー硫酸塩・塩化物温泉という。

館内の配慮も行き届き、部屋も調度品の配置といい、気配りが感じられる。
部屋食の料理もまずまずだ、これで料金が6千円台はやはり安い、結構なことです。
 
今朝は6:00起床、例によって目覚ましの朝風呂を戴き、7:00に朝食、のんびりの7:40分に宿を出た。

何時に起きて、何時にご飯食べて、何時に出発して・・、
とまるで、小学生の作文のようだが、今は現況・日常が旅の最中で状況が平常とは全く異る、非日常の真っ最中である、そのため、あえて書くことにしたい。
 
ところで、昨今は官営・公営の宿屋が、民化の煽りでドンドン潰されてゆく。 
NTTも同様で、関連宿舎は全国150〜160ヶ所ちかくあったのが、民営化してからは30前後に減ってしまった。 
郵政の「かんぽ」、厚生の国民宿舎や休暇村しかり、官・公営の宿もドンドン減らされていく。 

訳わかるけど、どうにかなんないの・・、
我々一般大衆の旅人にとってはマッタク、サミシイ限りであります・・!!!


更に、更に当館・NTT保養所「善知鳥荘」も、平成18年度(H19・3月)をもって閉館するらしい。
当節は大変お世話になったこと改めて御礼申し上げたい・・。
 
浅虫温泉」の詳細については「温泉と観光」の項で更に述べます。



道路は国道4号線である。

道路標識に「野辺地、十和田」方面が、何回となくでてくる。
たしかR4や十和田は東北の中央部、つまり東北道に沿って、在ったような気がしたので、地図を眺めるとR4は八戸側を通って盛岡へ通じている。
そして、途中、十和田市街を通っていたのである。  これで納得である・・。

因みに「十和田」の呼び名は十和田市、十和田湖町、十和田湖とあり、なにやら紛らわしい。 


紀行(33)野辺地 「或る旧会津藩士」



野辺地(のへじ)は、下北半島、俗に「斧形」の付け根に位置している・・、


北を陸奥湾に面し、南東部には緑豊かな丘陵をいただき、かつては南部盛岡藩唯一の商港で江戸期には北前船で賑わい栄えた歴史ある町である。

このため、古くから交通の要衛として物資、物流の重要な役割を果たし、商港として千石船が多く出入りしていた。 

港の岸壁にはこれら出入船の安全のため、夜は灯をともし、現在の灯台の役割をつとめた「常夜灯」が常時灯されていた。 

当時、地元の豪商・野村治三郎が船の出入りの安全を願って建造したもので、野辺地湊の尖端に常夜燈が灯ったには、江戸末期(1827年)の頃であったという。

青森特産のヒバや南部の大豆や鰯など、京・大坂や外国向けへ積み出され、往路には大阪で生活用品や上方の文物に荷を代えた船が、この灯火を目指して港へ帰ってきたものである。

この常夜灯(灯台)は、現存する日本最古のものといわれている。


幕末から明治にかけて・・、


大きく世の中が変革を遂げようとする時期、この野辺地の港に明治3年、旧会津藩の船が入港してきた。 
その中に、会津藩士280石取の柴佐多蔵の五男として会津若松城下に生まれた「柴五郎」が含まれていた。

品川沖からアメリカの外輪蒸気船に乗った五郎らは、まず野辺地港に入り、島谷清五郎の呉服屋を経て「海中寺」という寺に止宿していたようである。 
このときの様子を柴五郎は、「野辺地日記」に記している。

その後、田名部(現、むつ市)の「落の沢」に移り、柴家永住の地との決意を持って移住した。
旧会津藩士(斗南藩士:明治期、廃藩置県で藩はなくなるが・・)・柴五郎は、後の会津若松初の陸軍大将であった。


斗南藩・落の沢について五郎は、後にこう述懐している・・、
『 落の沢には新田初五郎の家一軒と、それより五十間ほど隔たりたる低き川辺に分家の一軒あるのみなり。これよりさらに十丁ほど離れて干泥田村の十四軒が最も低く、隣村の大平村には二十余丁、金谷村には一里ばかりあり・・。霊媒にて有名なる恐山の裾野は起伏し、松林、雑木林入り交じり、低地に数畝の田あるのみ。まことに荒涼たる北辺の地にて、猟夫、樵夫さえ来ることまれなり。犬の声まったく聞くことなく、聞こゆるは狐の声、小鳥の声のほか、松林を吹き渡る風、藪を乱す雨の音のみ。 』・・と。

戊辰戦争で苦杯をなめた会津藩は戦後、新政府により会津松平家の再興を許された。
領地として旧領内の少区域の猪苗代湖畔、もしくは北奥の旧陸奥南部藩領のいずれか三万石を提示された。

その際「農業により領地の財政基盤を築くこと」との条件があったため、衆議の結果、農業に有利である思われる領地の広い北奥への移住が決定した。 
新しい藩名は「斗南」(となみ)と命名され、旧藩士と家族1万7千人余りが移住した。
その中に柴五郎らの家族もいたのであったが、そこは火山灰土の風雪厳しい、農業には全く不向きな不毛の土地であった。


『 薩・長の下種下郎武士どもに笑わるるぞ・・、生き抜け・・!!、ここは戦場なるぞ・・!!』・・、


柴五郎は、旧会津藩士柴佐多蔵の五男として若松城下に生まれてる。
会津・日新館に学ぶが、戊辰の戦乱のため日ならずして休校。 新政府軍の若松城下侵入に先立ち、郭外の沢集落にあった柴家の山荘へ難を逃れたが、家に残った母と妹は自刃して果てた。

八歳の時、斗南藩への転封が下され、その後は北奥でのどん底の開拓生活が待ち受け、一家は辛酸をなめた。

彼は後に、斗南藩時代を書いた「野辺地日記」や不屈の生涯を書いた「ある明治人の記録」などの著を残した。
彼は廃藩後、上京して陸軍幼年学校・士官学校へと進み、日清、日露戦争での活躍により大正2年(1913)には陸軍中将に、大正8年(1919)には陸軍大将なり、後に12年の予備役となっている。

昭和20年(1945)、太平洋戦争敗戦の報に接して参内、12月13日に東京上野毛の自宅で亡くなっている。
なお、実兄の柴四朗は文人・政治家として名を為した。

薩摩・長州の藩閥(はんばつ)によって要職を独占されていた明治政府で、陸軍大将にまで進んだ人物・柴五郎は、武士の謙虚さと温情を持ち、常に敗者の尊厳に配慮するなど、多くの人々に慕われた会津人であったという。
新天地斗南藩(青森県)へ移住した後、北の冷涼の痩せた大地で、藩士たちは飢餓のため、生死の境をさまよった。 

挙藩流罪」とも言える敗者へのこの仕打ちに対し・・、父は・・、『薩・長の下種下郎武士どもに笑わるるぞ・・、生き抜け・・!!、ここは戦場なるぞ・・』と、常に叱責していたという。




北国の「横浜」・・、


野辺地から国道4号と分かれ、国道279に入る。 
海岸沿いの小さな市街地を抜け、一路、下北半島へ向かう。 
R4の混雑が嘘のように、静かな良道である。 野辺地から「むつ」の大湊まで、JR大湊線が平行している。

しばらく走ると「横浜」と言う、懐かしい地名に出会った。

小生の住んでいるのが神奈川県・・ 日本一の高さを誇る・・ランドマーク・タワーのある大都市・「横浜」はすぐ近くであるが、 こちらは、四季折々の色彩を織りなす、なだらかな丘陵地であり、西は海辺の陸奥湾に面した長く美しい海岸線である。 

海の青、菜の花の黄色、山の緑と、そのコントラストが美しい春の横浜町である。 
菜の花の作付け面積日本一を誇る北の町 、「横浜」(よこはままち)は下北半島の首位部に位置する臨海山村の地域であった。

あちらは日本一のノッポビル、こちらは日本一の菜の花畑、さて貴方のお好みはどちら・・・??。


無人(・・?)の大湊線・横浜駅を記念に撮り、道の駅・「よこはま」で小用をして、更に北上する。

むつ市の市街地に入る少し前に、102円/Lの看板を出してるG・スタンドが目に付いた、はじめ半信半疑で通り過ぎてしまったが、ママヨ!と思ってUターンして、再度確かめたら、やはり間違いはないようだ。

車を寄せて店員に「ぜーぶん安いね、混ぜてんと・・違うか、、」半ば冗談で・・「冗談なして・・」あちらも、半ば怒顔で言う・・、おまけにスタンドに’本日更に1円引き’とあった。
丁度頃合なので満タンにする。 

通常このあたりは110〜112/円、神奈川で116以上しているご時世である。

何か得した気分で先を急ぐ。



紀行(34)陸奥・むつ 「旧会津斗南藩」



「むつ」は、旧会津藩士の壮絶な歴史の一コマがあった・・、

「むつ」の市街に入った。 

この「むつ市」は小生、少々の想い入れが有る。 
昨年(2003)から今年にかけて「早乙女 貢」の大河歴史小説・『会津士魂』を読破した。 
そして小生の出身地は会津同郷の「福島・いわき」であることから。 

この本は、全二十一巻の大長編物語で、殆どが史実にもとずいて書かれている。
特に「下北」を舞台にした続編は、万感胸に迫るものがあった。



時代が変換してゆく中には必ずと云っていいほど、それなりの戦役を体験している。
中でも「関が原の戦い」、「明治維新」、そして「太平洋戦争」が日本の歴史上の大転換点であり、更に現代がそれに次ぐ時代とも言われている。

特に近代への入り口である明治維新を知ることは、現代に通じるものも多いと思われるのである。


幕末動乱・・、


幕末の動乱期、「会津藩」は京都で京都守護職という役職につき、「新選組」を擁して京都を浪士達から守っていた。 
ここでの浪士・不穏分子とされていたのは薩摩、長州をはじめとする尊皇攘夷派たちの所謂、急進派であった。 
特に過激な浪士が民家を襲い、市中を混乱させていた異分子である攘夷浪士達を、新撰組が取り締りに当たっていた。 

この様な世相の中、会津藩藩主・松平容保(かたもり)は将軍・家茂、孝明天皇から絶対の信頼を得て任務にあたっていた。

この時期、京を騒がしていたその最たる事件が世に言う「池田屋事件」であろう。 

その後、「八.・十八の政変」(1863年8月18日、長州が京から追われ、同時に七卿も落ちる)や「禁門の変」で、薩摩藩とともに長州藩を追放するが、この長州追い落としの際、中心となったのも会津藩であり、この事が後に長州が会津に対する恨みの要因となったといわれる。


同じ時期、将軍・家茂(いえもち)が亡くなり、孝明天皇の崩御で時態(事態)が急変する。 
十五代将軍に徳川慶喜(よしのぶ)が就任。 
そして坂本竜馬らの仲介のもと、「薩長同盟」が結ばれてる。
政局難に陥った慶喜は、大政奉還(政権を天皇に返す)を行い、更に「王政復古」を行い、朝廷からは慶喜に謹慎、領地の没収などの命が下る。


会津藩の戦い・・!!、


1868年正月3日より始まった「鳥羽・伏見の戦い」では、圧倒的に会津藩をはじめとする幕軍有利のだったはずだが、新政府軍は朝廷を抱き込み「錦の御旗」を上げたことによって、多くの藩が新政府軍に流れる中、まさかの敗退を喫してしまう。 

慶喜は嘆願して謹慎、容保の登城も差し止められたため会津へ戻り、謹慎の意を表すことになる。
しかし幕府の不満分子は江戸城に集結して、さらに一戦交えんとするが、勝海舟の仲立ちで江戸城は「無血開城」する。 

だが収まらないのが京の「池田屋事件」等で散々な目にあい、会津に恨みのある長州であり、あの手この手で、どうしても会津を攻めようとする。 

そして「奥羽諸藩」に会津追討の命が下るが・・、
奥羽諸藩は逆に、会津は恭順姿勢を明確にしているため討つ必要無しと拒否し、更に奥羽越列藩同盟が結ばれる。 
遂に新政府軍は会津を攻めるべく戊辰戦争・会津戦争が勃発するのである。

戦線の火蓋を切った新政府軍の勢いはすさまじく、奥羽白河、二本松を攻め、会津への進攻は急をつげる。
近代兵器と物量に勝る官軍(会津の人は似非官軍と言う)に、母成峠、戸の口と攻められ城下まで戦火は及ぶ。

この時期、会津白虎隊自刃の悲劇がおきている。


藩士家族は城内へ・・、


又は自宅で自刃し、家老の西郷頼母(さいごう たのも)一族も自刃して果ててる。 
藩士は1ヶ月篭城するが、無念なり会津は降伏するのである。
藩主・容保親子は会津謹慎後、東京へ移され、後、松平家家名再興が許されるが、 勝っても尚、会津に恨みを持つ長州は会津全藩を遠国島流しの刑に処する。
(実質的に会津藩の滅亡) 

その地は「北の果て」といわれる陸奥の国、「南部藩領」(現、むつ市)であった。
数え三歳の容大(かたはる)を藩主とし、新領地「斗南」(現在の青森下北・むつ市)へ移ることになる。

本州と北海道の間に斧のような形に突き出した下北半島。 
陸奥湾と太平洋を隔てる斧の柄の部分は、それほど高い山もなく、JR大湊線の車窓からは荒涼とした淋し気な景色が続く。
この地、今は「むつ市」となっているが、福島県・会津若松市とは以上のような関係が有ったのである。



市街地から大湊駅を左に国道338を行くと、「斗南藩士上陸之地」と古ぼけた案内板が有った。 
普通の人なら目にも留めないで、通り過ぎてしまうような地味な所である。
やや細まった道を海岸に出ると、奥の方にその碑はあった。

その碑は会津若松市の方向を向いて建てられているとのこと。
明治3年6月10日、新潟から乗船した1800人の旧会津藩士とその家族が、 ヨウヨウにして到着、上陸した場所であった。


現地の碑文より・・、


『 明治維新に際し、明治元年(1868)の戊辰の役に敗れ、廃藩の憂目にあった会津藩は、翌明治2年、斗南藩としての再興が許され、旧盛岡藩領の北部へ移封されました。 現在の青森県下北郡・上北郡を中心に会津から移住してきた藩士とその家族は2,600戸、17,300余人と記録されています。 この内、新しい藩庁が置かれた田名部(現むつ市)を目指して新潟港から新政府借上げのアメリカの蒸気船ヤンシー号に乗船し日本海廻りの海路をとって移住してきた一団1,800名がこの沖の大平橋に到着したのが明治3年6月10日のことでありました。』


会津の新領地・・?、


会津藩は領地を没収されたが、明治2年11月、下北地方、それに三戸郡と二戸郡(当時)が与えられ、家名再興が許され、移住者は2600戸、1万7千名以上に達した。 
この地を「斗南藩」(となみはん)と命名した。

「斗南藩」は、「北斗以南皆帝州」、つまり、北斗七星 の南は等しく帝(天皇)の国である、という中国の詩文に由来するという。 

新藩・「斗南藩」の町並みを造り、領内の開拓の拠点となることを夢見て、この地は藩名をとって「斗南ヶ丘」と名づけられた。 

しかし、そこは火山灰土の風雪厳しい不毛の土地であった。



むつ市大字新町にある曹洞宗寺院「円通寺」(恐山・本坊)は、戊辰戦争で敗れた会津藩が斗南藩三万石として転封された際に藩庁が置かれた寺院である。 
境内には明治33年に建てられた斗南藩主・松平容大の筆になる「招魂碑」が残る。 

斗南ヶ丘は、斗南藩・藩士の居住地として開墾に従事させた地であるが、開墾は困難を極めて殆どが失敗に終わったという。

むつ市内から東通村尻屋崎に向かう主要地方道、むつ・尻屋崎線沿いにも「斗南ヶ丘居住地跡」が残り、現在は公園として整備されているという。

斗南藩士(旧会津藩士)の尽力が、今の「むつ市」の発展の礎になったことは言を待たない。

次回は、   PARTUへ  

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