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日本周遊紀行

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紀行(51)手塩 「天塩川と松浦武四郎」



天塩川河口に建つ、松浦武四郎像と歌碑


天塩川河口・鏡沼海浜公園に「松浦武四郎」像と歌碑が立つ・・、



『 蝦夷人の みそぎなしける 天塩川
                 今宵ぞ夏の とまりをばしる 』


『 ながむれば 渚ましろに 成にけり
                 てしほの浜の 雪の夕暮れ 』



手塩は、道北の中核都市として大いに栄えたという。

国道232号沿いの「道の駅・てしお」に着いた。
赤レンガの建物が印象的な静かな道の駅で、ほぼ町の中心街に位置しているようだが、手塩の町そのものが全く静かなのである。
北海道開拓の歴史は、アイヌ語で「ベツ」と言われる「河・川」から始まったといわれるが、尤も、文明の発祥、人の生活基盤そのものが、川から始まったのであるが。 
原始林に覆われていた北海道で、唯一の交通手段は川船だったのである。

天塩町は、北海道第二位の川といわれる天塩川の河口にあり、川の恩恵を存分に受けている。 無論、海、川の船運を基盤として発展したものであろうが。


天塩の地名は古くから使われていて、「天塩の国」と云われ、古い文献にも良く登場している。 
明治期まで十勝、釧路、石狩などと同じように増毛から稚内あたりまでの広域を「天塩の国」と呼んでいたようで、遠くシベリア・沿海州にまでつらなる太古からの歴史を持っていたともいう。 

北海道は勿論、東北北部からは大陸は目の前にあり、縄文期のころより相当なる繋がりを持ってはいたのは確かなようであり、天塩川河口の川口地区には当時の大きな集落跡があり、先住民族の遺跡が残されている。
復元された竪穴住居は千数百年前の擦文文化期(さつもんぶんか)の頃といわれ、当時の住居を模してつくられたものでである。


擦文文化期とは北海道特有の文化で(一部、青森県北部も擦文文化圏に含まれるようであるが)、縄文後期には本州より弥生文化が伝わり、この時期に弥生と縄文が融和混合した頃の文化をいうようであり、本州の古墳時代から飛鳥時代に相当する年代でもあると。 

縄目の模様の縄文土器に対して「擦文式土器」とは、刷毛で擦ったようなの文様の土器が登場したことによるもので、その時代は北海道と本州の関係は更に強まり、本州北部の文化とほぼ同じになったとされている。 
擦文人の集落は河川のまわりに立地していて、その集団は縄文人を祖先にもち,後世のアイヌ民族を構成した集団でもあるという。

因みに、北海道の文化の変遷をみると、縄文時代(前期、中期、後期などに分かれ、1万から2千年前)、続縄文時代(2千年前、石器・鉄器:青銅器の併用時代)、擦文時代(5、6世紀〜 )、アイヌ時代(12、13世紀〜 )に概ね分けられるという。


天塩町は、明治期の北海道開拓史以前から日本海、天塩川での船の往来が多かったところである。
特に、江戸期には「テシホ場所」が置かれ、交易や漁業が繰り広げられ、当時の天塩川河口には7〜8百石積の船(大型和船)が行き交い栄えていたといわれる。
その後暫時、開墾を繰り返し、次第に町としての機能を形成し、大正期には木材積載船で賑わう港町として栄えるなど、町は一気に人口を増やし市街地がにぎわいをみせることになる。


手塩の街のイメージは、やはり大河・「天塩川」に重なるのである・・、

天塩川(てしおがわ)は、北見山地、上川町の北に位置する天塩岳付近に源を発し名寄盆地を北上、音威子府(おといねっぷ)から天塩平野に出て幌延町と天塩町の境を西へ流れる。

しかし、海岸目前で浜堤、砂丘に行く手を阻まれ、従って、海岸線沿いを10kmほど南流した後日本海に注ぐことになる。長さ256kmは日本で4番目に長いが、大きな支流が少ないため、流域としては10番目にとどまるという。

天塩川の流域を地図で追って行くと音威子府から先の下流域の平地に至ると、いたる所に三日月湖が残されているのが判る。
特に顕著なのが幌延町の南部にある湖・沼などが歴然としている。 

「三日月湖」(みかづきこ)とは、蛇行する河川が長期の侵食などの影響により河道を変えてしまった際、旧河道が取り残されて池や湖となったものである。 河跡湖(かせきこ)とも呼ばれる。  
多くの場合、この湖が三日月形となっているため三日月湖と呼ばれる。


「北海道」の誕生・・、

「北海道」という名は探検家・「松浦武四郎」が天塩川流域を探査している折、出会った音威子府村の川筋に住んでいたアイヌの長老の話から誕生したという。

天塩川流域に関する詳細な調査は、江戸幕府の命を受けた松浦武四郎が最初で、幕末の安政4年(1857年)6月のことであった。
その調査記録を要約・刊行したものが「天塩日誌」であり、日誌には、それまで知られることのなかった蝦夷地最北端の内陸部の様子を詳しく観察し、川の流れや深さ、川岸の様子、自然や生き物をアイヌ語地名とともに記されていると。
そこには、アイヌの人々の生活の様子とともに前人未踏の天塩川の自然が描かれてると。


又、武四郎はその中で、音威子府村の川筋に住んでいたアイヌの家に宿泊し、「アエトモ」という長老から話を聞き「ホッカイドウ」という名の発想をしたという。 
武四郎は、アイヌの言葉を十分理解していたが、「カイナー」(男の意、カイチーが女の意)という言葉を不思議に思っていた。
アエトモは「カイ」とは「この国に生まれた者」という意味で、ナは敬語であると武四郎に話した。 武四郎はこれを元に、この国は「北のカイの道」である。
つまり「北加伊道」と命名し、その後「加伊」を「海」にあて「北海道」という名が誕生したという。

音威子府村では「北海道命名の地」を宣言しており、天塩川の川辺には碑が建立されている。 
又、手塩町の天塩川河口には「松浦武四郎」の像が立つ・・。


天塩・テシオとは、アイヌ語のテッシから由来されており、「梁」(やな:川の瀬などで魚をとるための仕掛け。
木を打ち並べて水を堰1ヵ所に流すようにし、そこに流れて来る魚を梁簀(やなす)に落し入れて取るもの)を意味している。
これは、天塩川に自然に出来た、梁のような場所が数多くあり、天塩川をテッシ・オ・ペツ、魚を捕獲する梁のようなところがたくさんある川という意味からから転訛したといわれる。


もう一言・・、

天塩町出身者に小生の敬愛する人物がいた、「ポール牧」という。
一昔前、欽ちゃんこと「コント55」等と同時期、ナンセンスコント漫才で一世を風靡した「ラッキー7」の片方である。僧籍でありながら、喜劇役者のポール牧氏は「笑道に仏心あり」と言いながら、“指パッチン”を鳴らして世間の人気を得ていた。

「ぽーる牧」は、本名・榛沢一道(はんざわ・かずみち)、僧名・熈林一道(きりん・いちどう)、1941年(昭和16年)、天塩町雄信内に生まれ、稚内や秋田・大館市で寺の修行をするも、寺を脱走し上京、コメディアンを目指す。   
1965年、関武志と「ラッキー7(セブン)」を結成し、登場するや、たちまち大変なブームになった。

ストーリー性がありながら、その上にギャグをちりばめたコントで、キザでホラ吹きタイプをポールと、粗野で乱暴な男を関が演じ、身分の差、貧富の差など対極性を際立たせた内容が受け、一時代を画していた。


1970年代後半から、1980年前半頃まで続いた、所謂、テレビの演芸番組を中心としたブームにも乗ったのであるが。 
因みに、同時期に活躍したお笑い芸人は・・、

漫才」では、B&B(ビートたけし・北野武のこと・・)、ザ・ぼんち、ツービート、紳助竜介(島田紳助・松本竜介)、のりお・よしお(西川のりお・上方よしお)、オール阪神・巨人、今いくよ・くるよ。
漫談」では、牧伸二、八代英太、東京ぼん太、ケーシー高峰 。「コント」では、てんぷくトリオ、トリオスカイライン、ナンセンストリオ、トリオ・ザ・パンチ、ギャグメッセンジャーズ、コント55号、ラッキー7 。
コミックバンド」では、ドンキー・カルテット、ザ・ドリフターズ、ハナ肇とクレイジー・キャッツ ・・、と

何ともはや、そうそうたるメンバーが活躍していた。

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紀行(52)稚内 「野寒布岬」



「もう、これ以上北へ行く先の道はありません」・・・、


ノサップ(野寒布岬)の最先端部である。
敢てゆうなら最北第二の岬・・?へ遂に来たのである。 

北端の地は、タイル貼りされた小奇麗な園地の中央にイルカのモニュメントがあって、何故か、その上に大時計がぶる下がっていた、時に10時30分を指していた。
実は、日本最北の地は稚内の東にある宗谷岬であるが、ノサップ岬(野寒布岬)は稚内市街にも近いせいか周囲にも人家も結構多い(航空自衛隊の基地も近くにある)。 
日本海の夕陽が綺麗ということもあるが、名前の通った宗谷岬に比してやや地味なのは否めない、果たして・・?。
ノサップ岬の名・野寒布岬は、根室のノサップ岬・納沙布岬と紛らわしい。 
あちらは日本最東端で日の出の岬、こちらは日本最北端(二番目)で夕陽の岬であろう。


「ノサップ」というのはアイヌの意味で「岬が顎(あご)のように突き出したところ」という意味・・、

確かに地図を見ても、宗谷が上顎、野寒布が下顎で宗谷湾の口を開けている様子が判る。 

一方、根室の方はやはり下顎に納沙布、上顎に知床で根室海峡が口を開き、しかも国後島を今にも噛み付こうとしている。

「国後は俺のもんだ・・!!」と云わんばかりに・・!。
ノサップのアイヌ的解釈は的を得ていると思われる。

岬の隣に「ノシャップ寒流水族館」があった。
月曜の午前ということもあって小生以外の入場者は見当たらないろうであるが、入場口近くで若い女性がアザラシに特訓をしていた。 
多少の挨拶的会話をしながら、気がついたのが水槽の中央にかなり大きめの一頭のアザラシが半身を出して直立不動の姿でじっとしている。

「このアザラシはどうしちまったのですか・・?」
「日向ボッコしてるのでしょう・・もう歳ですから!」
「・・?」、水中で日向ボッコ・・?
「歳とると、動物も人間も一緒だね・・日向ボッコは・・」

館内に大回遊槽が有った。
そこにはホッケ、カレイに混じって幻の魚と言われる巨大な「イトウ」がいた、 あれっ「イトウ」が海水に・・?


「イトウ」という魚・・?、

ところで、長い間イトウは完全な淡水の魚であると思われてきたが、現在では中には降海する固体がいることが確認されていると。 
降海すると言っても、沿岸部での生活がほとんどで、遠洋にでることはないという。かつて、イトウは北海道だけでなく、岩手県以北に広く分布していたことが知られているが、青森県小川原湖付近にて1940年4月に捕獲されたものが最後の記録となって、その後は姿を消しているという。


一般的に、サケ・マスの類の魚たちの産卵期は秋であるが、イトウは春に産卵をするという。
寒冷な気候に影響を受けたことが要因であるとも言われている。 
性質は非常に獰猛で、反面強い警戒心を持っている。 強さと臆病さが混在した性質が特徴的だと言えるだろう。 
生熟するまでにオスで6年、メスで8年かかる。
体長も30センチメートルになるまでに5年、1メートルクラスになるには15年以上かかると言われている。 イトウが幻の魚と言われている所以には、こうした時間のかかる成長過程が背景にあるものだと思われる。

どちらかと言えば鈍重なボッーとした顔をしている印象を受けてしまうが、これはイトウがそうした生きるためのスピードを必要としなかったとする。
必要とする場所に生息してこなかったという歴史がそうさせているのだという。 
丸太のように太く長い体は、イトウの鈍重な印象を強くしていると。


アメマスの仲間にも言えることであるが、こうした湿原の川に棲息している魚類としては、太く丸い体形が向いているものと言われる。 
ヤマメやニジマスなどのように、速い流れの中をスピードつけて泳ぐ必要がないのだから、そうした環境に適応した結果、現在のイトウの体形であるのだろうと想像されるという。

非常に貧食で主に魚を食すが、大きく成長したものはカエル、ヘビ、ネズミなどの小動物さえも丸呑みにしてしまうと言われ、その食性にからむ伝説は数知れないという。



遂に稚内に来た・・!!、北限の街・「稚内」へ・・、


御存知日本最北の街・・、
日本最北」と言う語彙が何回となく出てくるが、ここは最北の地、国境地域の意味もあるので了解しよう。

北限の街「稚内」の市域は意外と広い。
ノシャップから宗谷の岬を抱え、特徴的なのが一つの市で日本海、オホーツク海と宗谷海峡と三つの大海の海域を有していることであり、同じ市域内で、海から朝日が昇り、海へ沈む夕日が見られる特異な地域でもある。

なお日本政府が主張している領土としての日本最北端は、北方四棟の択捉島(えとろふ)であるが、最北の「国境域」というイメージが強いのは、やはり稚内市である。
稚内はアイヌ語でヤム・ワッカ・ナイによる。ヤム=冷たい、ワッカ=水、ナイ=川の意味である。


現在の稚内は、最北端でありながら鉄道・道路・空路・航路と交通網に恵まれ北方観光のメッカとしても成立っている。 

昔はアイヌとの交流、北方の警備、そして樺太(明治期から昭和20年までは日本領)との往来で発展してきたが、今は利尻・礼文を拠点とした観光、酪農、水産で躍進している。 
酪農に関しては、稚内から宗谷にかけての内陸地帯は広大な丘陵地帯になっている。

北海道の北の端、サハリンをのぞむ宗谷地方の宗谷丘陵は、見渡す限り、視界の届く限り何もない丘、飾り気も彩りもない、ただただ広大で幾重もの丘が広がっている。 
高さ20〜200mの丘陵地帯が広がり、稜線や谷など丸みを帯びた形は、約1万年前の氷河期に形作られたといわれている。
平均気温は7℃ほどしかなく、樹木が生えず、殆どが笹やぶとなっている。 

氷河期において氷結・融解をくりかえし形成されたもので、丘陵地の地平線と海洋の水平線が同時線上に見渡せる日本でも唯一の特異な所である。
道民が選んだ「北海道遺産」の「豊かなる自然の項目」で「宗谷丘陵の周氷河地形」の名目で選定されている。

日本最北端のこの宗谷丘陵で、国内最大規模を誇る広大な乳・肉牛の牧場があり、厳しくも豊かな自然に育まれた健康な黒牛が放牧され、畜産酪農の宝庫になっている。
中でも「宗谷黒牛」は全国的なブランドであるという。


稚内市は北限酷寒の地、それに伴う”妙な物”の発祥地だとも言われる・・、

国産ストーブの製作を初めて手掛けたのは、箱館奉行の役人だといわれている。
江戸末期、宗谷の地に赴任を命ぜられての寒さに不安を抱き、かつて英国船で使用されていた煙突付きのストーブを日本人の職人に注文した。 
しかし、今まで作ったことがないため、職人の作業は難航し、アイヌの鍛冶屋に注文して出来上がったのが、国産ストーブの第1号となったという。

又、緑茶や紅茶と並んで、今や日本人の生活ではすっかりお馴染みとなったコーヒーであるが、そのコーヒーが日本で最初に庶民の口に入ったのは、なんと稚内だという。 


宗谷では多くの津軽藩士が厳しい寒さの為、「水腫病」などの病気で命を失ったという。 
水腫病(すいしゅびょう:)というのは、寒さで水ぶくれになり、顔がむくみ、腹が太鼓のようになって苦しみながら死ぬという奇病で恐れられた。 
野菜の欠乏からくるビタミンC不足で、現在の壊血病・・?。 

江戸幕府は、厳寒を何とかして凌ぐため藩士たちに最初に配給したのがコーヒーであった。 
其の頃、日本でも歴史を刻みはじめていたコーヒーであるが、其の病気に対して効果があるといわれ、薬や治療目的に使用されたといわれるが、実際には余り効果が無かったという

その頃の覚書に・・、

「 和蘭コーヒー豆、寒気をふせぎ湿邪を払う。黒くなるまでよく煎り、細かくたらりとなるまでつき砕き、ニさじ程を麻の袋に入れ、熱い湯で番茶のような色にふり出し、土瓶に入れて置き冷めたようならよく温め、砂糖を入れて用いるべし 」とある。

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紀行(52)稚内 「九人の乙女の碑」


樺太における悲しい歴史の一コマ・・、

海辺には思いのほか家並みが並んでいて、市内高台の丘からは市街地やフェリーターミナルが眼下に。
又、「利尻・礼文」の二島やサハリンも見通すことのできる。F・ターミナルや港からは、観光のメッカである利尻・礼文は勿論、現在は国際フェリーとしてロシア・サハリンへも就航されているという。

因みに稚内は現在、サハリン州との交流が活発化しているとらしい。 
稚内と樺太(日本名)とは現在、善隣友好というか、良好な関係が進みつつあるようで、稚内市の行政機関には「サハリン課」と言うセクションも有り、樺太との交流を深めるのを主業務としているようである。

だが忘れてならないのは、今なお戦争の惨禍や戦後の処理を棚上げし、解決されていない北方領土などの領土問題が暗い影を落しているのも「不幸な事実」である。


この見晴らしの良い高台は「稚内公園」であるが、ここの丘は別名を「望郷の丘」と呼ばれている。
公園の北端の樺太(からふと:サハリン)を望むところに、「氷雪の門」という二本の柱のモニュメントが有り、ほぼ並んで「九人の乙女の碑」が碑文とともに立っている。 

乙女の碑は別名「北のひめゆり」と言われ、所謂、九人の乙女の戦争犠牲者を碑している。
その九人の乙女のことであるが・・。


日露戦争の勝利によって明治38(1905)年、ポーツマス条約により日本領となった樺太(からふと:サハリン)には、炭鉱や工場などで働く多くの日本人が住んでいた。 

後に起きた太平洋戦争は、昭和20年(1945年)8月15日、日本の敗戦となったが、過ぎる8月20日、ソ連軍がサハリン(樺太)に突如侵攻してきたのである。
この際に旧樺太庁・真岡町の真岡郵便局では、一部の局員は通信網を維持するために交換台に残され、18才から25才の九名の若い女性電話交換手が迫りくる戦火の中、崇高な使命感のもとに職務をまっとうしていた。 
そしてソ連侵攻のあった其の日、以下の言葉を残して手渡された青酸カリを静かに飲み、やむなく自決したという。


二つの意味を持つ、とされた「碑文」が掲載された理由・・?、


この『九人の乙女の碑」には最後の電文の様子が彫られている。

『 戦いは終わった。 それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……」・・、の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む・・。 』

しかし、かつての碑文は次のようなものであったという。

『 昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向かった。ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるままに青酸苛里をのみ 最後の力をふりしぼってキイをたたき、「皆さん さようなら さようなら これが最後です」の言葉を残し 夢多き若い命を絶った。 戦争は二度と繰り返すまじ平和の祈りをこめてここに九人の乙女の霊を慰む 』 ・・・と、

一見してわかるように、純粋な「使命感」から職場を守り、乙女の純潔を守るために覚悟の自決をした彼女たちの死の真実をゆがめ、「悪い日本軍」の命令でやむなく自決に追い込まれたかのように、事実を歪曲して伝えることが行われていたという。 

戦後の歪んだ価値観や事実を曲げ、所謂、自虐史観、戦後教育の歪みが、ここでも行はれ用いられたといわれる・・。


昭和43年(1968年)に稚内を訪れた天皇皇后両陛下(昭和天皇)は氷雪の門、九人の乙女の碑の前で説明を受けられ、深く頭を垂れ、まだ年若い彼女らの冥福を祈り、後日そのときの感銘を歌に託している。

昭和天皇の詠み歌

  『 なすべきを なしをへてつひに 命たちし
                    少女(をとめ)のこころ わが胸をうつ
 』

香淳皇后の詠み歌

  『 樺太に つゆと消えたる 少女らの
                  みたまやすかれと ただにいのりぬ 


昭和45年に行幸記念碑として氷雪の門の隣に建立されている。

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