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本日の記録・データ

本日・年月日 平成16年9月27日 延日数 8日目
出発地 小平町 道の駅「おびら鰊番屋」 出発時間 7:00
到着地 紋別市 道の駅「オホーツク紋別」 到着時間 20:30
天 候 快晴 体 調
走行道路名 R232 道道106 道道254 R238
主移動地名
小平⇒羽幌⇒遠別 ⇒天塩 ⇒天塩大橋 ⇒浜湧別(サロベツ) ⇒
ノシャップ岬 ⇒稚内 ⇒宗谷岬 ⇒浜頓別 ⇒紋別
現在(宿泊)地 道の駅・オホーツク紋別
道の駅(R) おびら鰊番屋  富士見  てしお  オホーツク紋別
温 泉 紋別温泉「とっかりの湯」
名所・旧跡 おびら鰊番屋  日本海オロロンライン羽幌(天売島)  天塩川
 サロベツ原野 ノシャップ岬 
稚内 宗谷岬  猿払・原野  クッチャロ湖

走行関係(km) 燃料関係(L) 金銭関係(現金円) 金銭関係(カード円)
本日表示 2581 今回入油 29 本日支出 2888 本日支出 3509
昨日表示 2159 前回累計 176.1 前日累計 22643 前日累計 40570
走行距離 422 今回累計 205.1 本日累計 25531 本日累計 44079
総距離 2581 .  7回目 . . . .

8日目:PARTT(小平、羽幌、遠別)    PARTU(手塩、稚内)へ   第9日目へ  
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紀行(48)小平 「鰊番屋」



道の駅が、道内最大の「旧花田家鰊番屋」だった・・、


昨夜は、留萌の神居岩温泉でゆっくりしたので、遅くなってここの小平町の「道の駅・おびら鰊番屋」に着いた。 
駐車場の横に大きな木造風の四角い建物が在ったのは気がついていたが、例によって一杯飲んで車中の就寝となってしまった。 

そして今朝起きて気が付いたら、巨大なこの木造建物はニシン番屋で「旧花田家鰊番屋」とあったのに気が付いたのである。 
国の重要文化財だという建物ではあるが、内部は鰊漁具等が展示してある資料館になっているよで、海岸沿いの国道に小平町の「道の駅・おびら鰊番屋」があった。


同じ様な巨大なこの木造建物が二棟建っていて些か紛らわしいが、手前北側の建物は番屋を模倣して造ったもので、本物のニシン番屋は南隣の「旧花田家鰊番屋」とあるのがそうである。 

国の重要文化財だという建物で、内部は当時のままの室内の様子や鰊漁具等が展示してある資料館になっている。


僅かな入場料を払って中を覗いてみた。
すぐ右手に鰊漁でヤン衆が使用した各種鰊漁具が展示されている。
400uほどの溜まり場は三つの”いろり”が仕切られた居間になっていて、狭い通路土間を介して雛壇状の三段のデッキと呼ばれた寝台から構成される劇場的な大空間である。
玄関土間の左方は主人の部屋や親方衆の部屋、客間、応接間などが当時のまま展示してあり、その豪勢さが偲ばれる。

小平町では、先人たちが築き上げた郷土の歴史・文化の保存と継承を目的に、昭和46年重要文化財の指定とともにこれを買収し、3年の年月と約1億9千万円の費用を投じて解体修復元したものという。


昭和30年代まで日本海に押し寄せたという「鰊」・・、


銀鱗が海を染めると言われたほど、産卵期の鰊が大群で本道の西海岸に押し寄せ、特に、小平町鬼鹿の海岸は千石場所とも呼ばれた。 
中でもこの鰊番屋が建つ天登雁村(てんとかり:旧地名)の前浜一帯には、ヤン衆が歌う「沖揚音頭」が響き渡り、もっこ背負いの人たちで沸き返っていたという。


この番屋は、当時の網元の栄華の様子を今に伝える歴史的建造物である。
日本海沿いの主な鰊漁場には関係する家屋や旅籠が軒を並べたが、中でも鰊番屋は魚場主(網元)の親方や漁労、漁夫、農家の出身者、そして遠方からの出稼ぎ者等の宿泊施設として100〜200人の大規模建物が目立った。 

その中にあって、この「花田家鰊番屋」というのは総勢で500人という規模の豪壮雄大な大建築物であり、道内に現存する最大規模の鰊番屋であるとのこと。
創立は一説には、明治29年頃といわれていたが、今時の解体調査の結果、建物部分の墨書やヤン衆寝所の羽目板の落書から親方生活部分の内部造作は明治38年頃と考えられ、ヤン衆生活部分はこれより2〜3年早くできたものと推定されているという。 


故・花田作三氏の生前の話によれば、明治29年頃、山林を入手伐採、この頃から製材等に着手したものと思われ、この番屋建物は、すべて地元の山地から切りだし、船で海上を運び、木挽の手によって製材されたものだという。 

ニシン漁の最盛期には、この番屋の建物の他にも船倉、米蔵、網倉など100棟以上の付属施設が建ち並んでいたといい、 玄関を入ると左手に親方の住所兼執務所、右手に「ヤン衆」と呼ばれる雇い漁夫が溜まる場所を配置している。 
往時は200人を超えるヤン衆がこの大空間にひしめき合い、ニシンの群来を待ちかまえていたのだろう。


因みに、概ねこの時期に小平地区は、留萌炭田を抱える産炭地でもあって、昭和の中頃にはその最盛期を迎えていた。
鉄路も留萌本線留萌駅から留萌炭鉱鉄道、羽幌線、達布森林鉄道などが延びていて昭和40年代までは活況を呈していたという。  

ニシンが去って、合わせるように炭鉱も下火になっていくのであるが、一時期はニシンと炭鉱で、この北海道の片田舎は、大いに沸きかえったのである。


国道232号線をはさんで海側には「にしん文化歴史公園」があり、後に紹介する北海道の名付け親・「松浦武四郎翁」の像が建っている。

芳紀女性数人が、翁像の前で写真を撮ろうととしていたので小生が手を貸してやった。
「 ところでお嬢さんたち、この人どんな人だか知ってるの・・?」、
「知らなーい」と、あっさりしたもんである。 

掻い摘んで松浦武四郎の人物像を話してやったら、「すごーい」、「道理でかっこいいと思った・・」とこんな具合であった。 

彼女らは、“わの字”の付いたバックナンバー車で、颯爽と北へ向かっていった。


紀行(49)羽幌 「天売島と海鳥」



60,000羽もいたという「ウミネコ」は、僅か20年で絶滅した事になる・・!!、


小平の「ニシン番屋」の道の駅に沿って海岸を一直線に延びる海道を、別名「日本海オロロンライン」とも言う。
小樽より国道231、国道232・サロベツ原野を経て稚内を結ぶ、日本海広域観光ルートであるが名称の由来は、あの「オロロン鳥」である。


羽幌町に到った・・、
 

後に、この町の海岸沿いにあるホテル・「サンセットプラザはぼろ」に泊まった折、洋上に焼尻島や天売島が望まれた。

日本で唯一の繁殖地といわれるオロロン鳥(海ガラス)がいるのは、この「天売島」(てうりとう)である。 その天売島へは、この先、羽幌の港より凡そ一時間の距離であるが。
天売島は人間と海鳥の「共生の島」といわれる・・!!。

周囲約12kmの小島で、羽幌から約27km沖合の日本海に浮かぶ。
北海道本島に面した東海岸に400人近くが住み、高さ100m以上の断崖が続く西海岸には、八種類百万羽近くの海鳥が3月から8月にかけて、繁殖のために訪れるという。
天売島に初めて倭人が住みついたのは江戸時代で、ニシンなどの豊富な資源に目をつけてだといわれるが、それまで天売島は、ほとんど人間が住み着かない「海鳥の楽園」だったに違いないと。

以来、200年にわたって人間が定住し、海鳥との共生が続いているという。 
この規模の島で、これだけ多くの海鳥が繁殖し、しかも、人間が生活を営んでいる地域である例は世界的にあまりなく、その意味で貴重な「共生の島」であるといわれる。 

島は、周囲約12km.で砂浜はまったくなく、石と岩場の海岸で最高点184m.の西海岸付近が海鳥などの繁殖地である。 
鳥類は、島の北西海岸で断崖が続き、ウミガラス(オロロン鳥)やウミウ、オオセグロカモメなどの海鳥が棲息する。
島民の生活基盤は漁業、観光で年間約3万人近くが訪れるということで、羽幌町からフェリーと高速船が出ている、ただし、高速船は6〜8月のみとのこと・・。


人間と海鳥の共生は・・?、

近年になって、人間と海鳥の「共生の島」も人間による様々な影響で海鳥に「変化」が現れているという。
先ず、1960年代から70年代にかけて島周辺で盛んに行われた「サケ・マス流し網」漁業による混獲で、夥しい数の潜水の名選手であるオロロン鳥が犠牲になったという。 
もう一つは天敵のカモメや、島民・観光客が出すゴミに集まる海ガラスならぬカラスが増え、繁殖群が縮小され集団防衛できなくなったオロロン鳥は、卵や雛を捕食されやすくなったことなど。 

又、オロロン鳥のみならず、ケイマフリ、ヒメウ、ウミネコなども減少し、海鳥の繁殖地と漁場が同じなので、延縄漁の仕掛けや、他の漁具で犠牲になっていることもあるという。 
又、人為的なものもあって、プラスチック類の投棄、ゴミ類での汚染など、観光客によるマナーの悪さも挙げられるという。


ニシン漁の乱獲によって「ニシン」の姿が消え、そして、海鳥も・・、

一方、世界各地の海鳥生息地では、古来よりの変動減少は余り見られないという。 
日本では天敵の害よりも人為的によってオロロン鳥や他の海鳥の捕食食糧になる魚類を乱獲し減少させ、絶滅に追いやったともいわれる。

1938年(昭和13年)、天売島が海鳥繁殖地として、国の天然記念物に指定された頃は、オロロン鳥は40,000羽いたという。 
1956年(昭和31年)以降はニシンは凶漁で、それ以後ニシン漁業は消滅するが、同時にオロロン鳥は合わせるように激減し、1980年(昭和55年)頃には553羽、そして遂に平成16年には観察史上初のオロロン鳥繁殖数は0羽になったという。 
更にオロロン鳥に合わせるようにウミネコの繁殖も0羽となったという。


人の勝手で飼い猫を捨て、そのネコが野良猫化して海鳥を襲っている。 
又、海鳥の繁殖地で漁業を営み、魚を減らして海鳥を餓死させ、また、漁網による混獲の犠牲になっていると。 
捨てたゴミに集まるカラスが、野鳥の卵やヒナを奪う・・、それらは全て自然現象ではなく、人の生活の都合によって生じた人的行為の自然破壊であり、生態系の破壊を起こしているといわれる。

人と自然とが調和のとれた共生・共栄をしなければ、やがて「共生の島」どころか「天売島から海鳥が完全に消える日」が訪れるという。

過去、北海道ではニシン漁の乱獲によって「ニシン」の姿を消したともいわれる。
天売島に人類が住み始めるのは、実は縄文期の紀元前5000年頃ともいわれる。
海鳥繁殖地・天売島が国の天然記念物として指定された時期は、オロロン鳥が40,000羽もいて、それが1938年頃であった。 

その後平成の年代になって、オロロン鳥が数十羽飛来確認するも、2004年の頃になって、観察史上初の繁殖数が0羽となった。 
つまり、7000年の間、人とオロロン鳥は共生してきたが、僅か70年足らずで人類は、あの麗しきオロロン鳥を「見事に」滅ぼしたのである・・!!。


「日本海オロロンライン」は、「天売海道」に名前が変わってしまった・・?、

又、1986年頃にはウミネコは60,000羽いたが、2000年には半減し30,000羽になったという。更に、2005年にはオロロン鳥の繁殖は2年連続ゼロと同時に、ウミネコの繁殖も絶滅となった。 
ウミネコは、僅か20年で絶滅した事になる・・!!。


海鳥や他の生物が豊かなときはニシンも豊漁だったが、しかし、魚もすめない場所では海鳥も海獣も人も生活できない。 
野生生物と共生・共栄できるように、いま人間活動・漁法の改善を真剣に考えなければならず、今日、野生生物に起きた悲劇は、明日は人々に降りかかってくることは確実であると。 
そのことを「天売島」は教えているのである。 


日本海沿岸を貫く海道を、別名「日本海オロロンライン」とも言うが、今は何かその名が実に虚しい。
その為かどうか・・?、最近では、この海岸国道をオロロンラインとは言わず、「天売海道」と称しているようだ・・??。


紀行(50)遠別 「稲作北限・・?」



遠別町の「道の駅・富士見」へ来た・・、富士見という名称が少々気になったが・・、


小生が住んでいるのは関東圏は西部の神奈川県であるが、周辺地域には所々にその富士見という地名や所名は在る。 
勿論、日本一の富士の山が見えてる、又は、かって見えていたという意味合いからであるが。

道の駅の裏側高台には、憩いの場所「富士見ヶ丘公園」の広大な緑地があった。 
そこの展望台からの眺めはすこぶる良い、遠別川とその向こうに遠別の町並みが望まれ、正面は紺碧の日本海であった。
そして、その右手洋上に浮かぶのは利尻島と利尻山、つまり秀峰・利尻富士だったのである。
ハハーンこれで納得した、「富士見」は利尻富士のことだったのである。
ここから眺める遠別地域は、遠別川を中心とした美しい景観が連なる穏やかな雰囲気が伝わり、

周辺は丘陵地帯が大部を占めるが、遠別川に沿って田園も広がっている。 
生活基盤は、日本海の恵みを受けた漁業が中心の地であろうが、水田が広がる農業もそれなりの生業であるようだ。


この地が水稲の北限と言われる・・、

稲作の北限・・??、 
遠別の地域そのものが既に日本列島の最北の地なのである、云うならば「水稲稲作の最北地」と表現した方がよさそうである。

この辺りの沿岸地域は、酷寒の北海道の北域にも関わらず対馬海流(暖流)の影響により比較的温暖で、合わせて南部にピッシリ岳(1,031m)を主峰とする天塩山地が連なり、この山地に源を発する遠別川は延々80km余にわたるが、この川の水温が、この地にしては比較的高めであることが幸いしていると言われる。 

これらが、遠別川流域での日本における“水稲北限の地”でもあるとの理由とか。 
しかも、世界的に見ると遠別町より北部の地域での稲作は行はれているが、その殆どが陸稲であるとのことであり、水稲としては世界最北の地でもあるらしい。


稲作の発祥は・・?、

明治30年頃、遠別町に初めて入植したのが越前福井の武生(たけふ)の団体であった。その後、愛知、千葉、熊本県等の団体が入植し、個人移住も続々入植したという。

北海道入植者は何処も同様に、特有の原野、密林の開墾から始まる。 
それらの伐採、土地の開墾、そして耕作は困難を極めるが、当地への入植は時代も進んでいて機械化も進み、遠別の地性(地勢)もその割りに良かったのだろう。
入植は淡々と進んだようである。 

開基以後、遠別の農業は馬鈴薯、麦や豆といった畑作が中心であったが、越前団体らは入植後すぐに水稲栽培を試み、試行錯誤のうえ国土の最北地に稲作を実らせたのであった。


ところで越前「武生」は、福井県・越前平野の最南端にあり、古き越前の国の国府(奈良期の政庁)が置かれていた事で知られ、かつては「府中」とも呼ばれた。
( 旧武生市役所:公会堂は旧国府跡地)

この越前平野は、県内の水田面積の凡そ半分を占める大稲作地帯が広がり、国内でも有数の米どころである。 
この地は又、大陸から「越の国」(当時は北陸地方一帯を指す)へ弥生の文化、文明が直接伝わった所でもある。 
その中心が「武生」であり、越前平野へ稲作文化を広めていったともいわれ、いわば、わが国の稲作の発祥の地の一つと言えるのである。 

これら、稲作の遺伝子を持つ人々が、最北の地・遠別を目指したのであった。
武生の人々に倣って各地域で水田熱が起こり、大正10年頃には急速に水稲栽培が本格化したという。

因みに、現在も当地区出身者の人々が、四世を中心に多数生活していることか。
この地名の由来は、内地からの遠い別れの地「遠い別れの地」、「遠別町」などと想像してしまうのだが・・?、
実際はアイヌ語の「ウイベチ」(相語る川)からだという。
他に、「ウイエベツ:さわがしい川」、「ウエンベツ:悪い川」という意味でもあるというが、稲作の実る肥沃な地を造りだす川にして「悪い川」と言うのはチト頂けないが・・?。


比較的長い海岸線を抱く初山別村(しょさんべつむら)は、村名の由来がアイヌ語の「シュサンペツ」(小さい沢のある川)と、そのものズバリの地域名である。

この辺りのアイヌ語の元は、風土や地勢、地形、山川草木の形容・様態から成っているようであり、これらが現在の地名に繋がっている。 
北海道全般にも言えることだが・・、
地域名でアイヌ語を由来にして付けられたもの以外にも、内地からの開拓・入植に際して地名が決められたものである。
そして、周辺に存在した施設・自然状況、あるいは周辺の風土などから命名されたものと、単純に大別されるようである・・。


北海道には、本州のような短絡的「瑞祥地名」は無い・・!?、

実は、ある学者によると、日本の地名の多くはアイヌ語起源である可能性が高いとも言われる。先住民族なのだから当然だが、昔は日本の大部分の地域にアイヌ民族がいたとされ。 

その後、北方へ追いやられたが、現代日本人の八割の人はアイヌ民族の血を引いているともいう・・?。
このようなわけで、とりわけ北海道や東北の地名には、アイヌ語に漢字を当てたものがゴロゴロとある。

例えば、栃木県「日光(にっこう)」は「二荒(ふたら)」が「にこう」と読み違えられ、さらにそれに当て字をして出来上がったという。
この「ふたら」はアイヌ語「プタアラ」が語源になっており、これは「美しい高原」のことである。
「富士」もアイヌ語の「フチ(火)」が語源だとする説が有力である、つまり「火の山」だったわけである。


ところで、折角の地名も変遷されて、やがては消え行く運命である。 
ここのところの「平成の大合併」では全国で3200在った市町村は1800位になると言われる、つまり、1400箇所の地域名称が無くなるのである。


ところが現在小生が訪ねている、所謂、北海道・北部の日本海側の市町村は全くといか、変化がないのである、これは一体何を意味するのであろうか・・??。 
しかも、詳細は不明であるが小生の知っている限り、北海道には、本州のような短絡的「瑞祥地名」は、少ないように思われるが・・!?、

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