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日本周遊紀行(123)深江 「唖然、深江の道の駅」


写真:ドーム内の原型のままの被災保存家屋


国道脇の「道の駅」に、火砕流で埋まった生々しい家々の痕跡が保存されている・・、

普賢岳と大火砕流跡を観察して深江町の道の駅で一服した。

水無川(火砕流痕)の袂、国道に沿って「道の駅;みずなし本陣ふかえ」があり、平成新山を一望できる比較的新しい「道の駅」で日本最大級の敷地を誇るという。(その理由は・・?) 


島原市から口之津に向かう国道251号線そばにある道の駅で、最近海岸側にバイパスができているが、旧道のそばにあり普賢岳の噴火で多大な被害を出した水無川に隣接してある。
ここからはその普賢岳が正面に見え、道の駅展望台には望遠鏡も備わっていた。

この道の駅は通常の施設の他に特徴的なのが、被災家屋を現状保存する「土石流被災家屋保存公園」という一角(施設としては、こちらの方が遥かに広大)が在ることである。
園内にはドーム状の建物があり、これは風化しないための処置だろうが大きなテントを設けてその中で保存展示しているのである。
そこには、被災家屋が3軒そのままの形で保存されている。
その他にも屋外に8棟、合計11棟の被災家屋が保存されている。


それは、見るからにゾッとする光景で、全ての保存家屋が一階の屋根付近まで部屋の内外を問わず土砂にうもれているのである。 
屋根だけ残して土に埋もれた家々は余りに奇怪で・・、ある家は瓦葺の広めの日本式家屋で、渡り廊下の上まで大小の土砂、火山灰が流れ込んでいる。

一方では家の一階部分の台所は完全に土砂に埋まり、窓からなだれ込んだ土砂が玄関、居間、子供部屋、寝室と土砂で一杯なのである。 
これら土石流のものすごさを物語っていて、真に痛々しい限りである。

ここにはリアルに訴えて来るものがあり、その凄まじい光景にただ唖然・・!、火山の威力をこれほど雄弁に語るものはないだろう。


この保存家屋群は主に土石流によって起こった災害であり、云わば二次的災害とも言えるだろう。 
土石流とは谷に積もった石や土砂などが長雨などが大量に流出することいい、流れは数十トンもある大きな岩でさえ石ころのように押し流してしまうほど大きな破壊力をもち、日本各地でさまざまな被害をもたらしていることは知られている。


普賢岳では、火砕流で山腹に大量に積もった火山灰などが、梅雨の長雨や台風などが続き、何回も土石流が発生した結果、火砕流が届かなかった下流地域にまで及び民家や橋、道路、鉄道などを飲み込み押し流し、耕作地を土砂で埋めつくしたのである。 
普賢岳の山麓地域は元々、酪農や葉たばこの産地として知られていたが、土石流や火砕流で大きな被害をもたらしたのである。


保存家屋の前に大きな説明版があった。 
今回の被害の状況が詳しく写真付きで(上空写真)説明してあり、これを見る限り火砕流、土石流の被害範囲は太い幾筋もの線ではなく、広大な面となって被害が及んでいることが判る。

「道の駅・みずなし本陣ふかえ」は雲仙・普賢岳噴火災害後に、島原地域再生計画の基ずき平成11年4月に開業したもので、普賢岳の噴火災害のすさまじさを後世に伝えるために、土石流によって被災した家屋が、そのまま保存されているこの地に造られたものであった。



雲仙岳災害記念館・通称「がまだすドーム」


道の駅を島原方面に少し行った右手に、広大な公園が在り、この一角に「雲仙岳災害記念館・がまだすドーム」というのが在った。
ゆるやかにドーム状をなした、広―い建敷きの近代的建物である。 

「がまだすドーム」という奇妙な名は、「がんばる」ドームという意味らしい!。
地元の言葉で「精を出せ」、「がんばろう」という意味だそうで、普賢岳の噴火で大災害を被ったところから復興に向けた合言葉だったそうである。

内部は、「大噴火シアター」の臨場感ある巨大なスクリーンや 被災した文物を集めて当時の町並みを再現した部屋、折れ曲がったバス停や自転車、最後まで陣取っていたマスコミのカメラや車両等々の災害遺品の展示。 

又、「島原大変シアター」は、江戸時代に起きた噴火の際に、島原が壊滅状態になったことに加え、山が崩れて海に流れ込みんだことから対岸の肥後(熊本)に大津波が押し寄せたことを「島原大変、肥後迷惑」(後述します)と言い、その時の様子、エピソードも紹介している。


マラ、隣の敷地には、当時の大火砕流で殉職した消防団員の顕彰碑文の立派な石碑が建っている。刻文の内容は・・
 

『 碑文 1990年(平成2年)11月17日、雲仙・普賢岳が山頂から白煙を上げ、198年ぶりに噴火活動を開始した。始めの頃は、穏やかであった活動が、徐々に活発になり土石流や火砕流が発生したため、避難勧告が発令され、消防団員が昼夜を問わず、監視活動や住民の避難誘導に当っていた。 翌年6月3日、午後4時8分発生した、予想もしなかった大火砕流に飲み込まれ、監視活動に当っていた消防団員12名を含む43名の尊い人命が奪われるという大惨事となった。 我々消防団員は、同胞の団員が殉職したことに対し、悲痛な衝撃を受け、残された遺族のことを思うと心痛めるばかりである。 我々は殉職した消防団員の崇高な郷土愛と不屈の消防精神を消防人の鑑として受け継いでいかねばならないと改めて決意した。 殉職した団員に対しては、二階級特進がされ、国からは著しい功績が認められ死亡叙勲が授与された。 1996年(平成8年)6月、雲仙・普賢岳の噴火活動の終息を迎え、この功績を末永く顕彰し、安らかなご冥福をお祈りするとともに、後に続ずく消防人の心を奮い立たせるため、この慰霊碑を建立する。 なお、この慰霊碑は全国の消防関係等の皆様から寄せられた心温まる義捐金を浄財にさせて頂いた。 1999年(平成11年)11月17日 島原消防団長 下田信夫 』 とあった・・合掌礼拝・・!!。


碑石の直前には、当時救急、救助に活躍した装甲車とヘリコプターが保存展示されている。
又、被災した消防車やパトカー、半鐘などが「農業研修所跡」に保存されているという。

大火砕流で被災死亡した人々は、消防団12人、警察官2人、住民6人、タクシー運転手4人、火山学者3人、報道関係者16人の43名が死亡・行方不明となった。

尚、深江町での被害は死者・行方不明者・44名、建物の損壊・2,511棟、被害額・2,299億円

深江町(ふかえちょう)2006年3月31日、南高来郡加津佐町、口之津町、南有馬町、北有馬町、西有家町、有家町、布津町の八町と対等合併して市制を施行し、「南島原市」となった。
従って、島原半島は、雲仙市、島原市、そして南島原市の三市のみになった。(一部諫早市が含まれる)。

次回は、「島原」


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日本周遊紀行(124)島原 「島原の乱」



「島原の人間はよく生きている」、と周囲で囁かれていた、それは・・、

帰路、島原F・T(フェリーターミナル)へ立ち寄り、熊本渡航の確認と乗船券を確保した。
1時間以上の時間余裕があるので島原城へ向かってみた。


先ず、島原について・・、

城下町としての島原の歴史は有馬氏(戦国時代に有馬晴純が現われて島原半島を根拠に肥前一帯に一大勢力を広げる)などの群雄割拠の時代を経て、徳川時代の元和4年(1618)から7年の歳月をかけ松倉重政が島原城を築城したときに始まる。
松倉氏は越中(富山県)の出身で、豊臣秀吉の家臣・筒井順慶の家老職だった。

江戸初期の島原築城以後は、島原藩の城下町として栄える。
しかし、松倉家はキリシタン弾圧をはじめとする悪政を続け、1637年(寛永14年)に「島原の乱」が起こる。 
これにより住民はほとんど死亡し、代わって藩を統治したのは高力忠房(こうりき ただふさ:徳川家の譜代中の譜代で、家康三河時代の三奉行の家系)であった。

忠房は、三代将軍・徳川家光から島原の乱後の肥前国島原藩4万石へ移封された。
このとき家光は忠房を厚く信任していたため、あえて乱後で荒廃している島原へ移封させて復興に努めさせ、更に長崎の警備や九州における外様大名の監視も任せたと言われている。 
忠房は家光の期待に応え、乱後で混乱していた島原の農民に対して1年間の年貢免除、浪人らの移民奨励などの良策を重ねて島原を見事に復興させている。



天草・島原の乱・・、  

元和2年(1616)、大和・五条から松倉重政が4万石の大名として日之江城に入城した。

重政は元和4年(1618)有馬氏の家臣・島原氏の居城であった森岳城跡に新たな城の築城にかかる。
着工人員延べ100万人といわれる人夫を動員し、4万石の小身分でありながら分不相応な大城を築く。

当然、築城、各種土木工事で費用が必要となり、重政は住民に重税を課した。
又、彼は入国当初は切支丹に対して寛大であったが、幕府が切支丹禁制の意の強いことを知って、方針を一変して弾圧を強行するようになる。

その結果、領民は更にに苦境に陥った。


重政の病死の後はその子勝家が継いだ。 
この勝家は遊楽にふけって政治に不熱心だったため租税は重い上にも重くなっていった。 
更に、この年は寛永11年以来の4年も続く大凶作で領民は過酷を極め、絶望するに至った農民たちは領主を深く恨むようになり、不穏の空気が充満して一発触発の状態となっていた。 
その過酷さは近隣の人々からも「島原の人間はよく生きている」と囁かれるほどであり、巷間(こうかん:ちまた)では島原の領民が蜂起したのは当然であるとも言われる。


寛永14年(1637)限界を悟った領民は、遂に一揆を起こした。
これが世に言う「島原の乱」である。 
乱は数ヶ月で終結したが、これによって島原半島の様相は一変してしまったという。

この一揆に応呼したのが天草の益田四郎であった。
島原・天草の合同一揆民は益田四郎(天草四郎時貞)を総大将とし、その下に鉄砲大将・侍大将・普請奉行などといった幹部を置いて組織をしっかりと固める。
その勢力は3万7千人。一揆に参加した農民が全て原城(別名・日暮城、島原城の築城によって廃城したものの、その当時起こった島原の乱で天草四郎以下の一揆軍がたてこもった城として有名)に入ったため、島原南部と天草は人っ子一人いない廃村のようになったという。

九州の近隣雄藩である細川・鍋島両藩や幕府の懐刀と言われる板倉重昌など、幕府軍の再三の攻めにも落ちなかった一揆軍であるが遂に、将軍・家光が自ら決断を下し、腹心中の腹心である老中・松平伊豆守信綱(通称・知恵伊豆)を援軍として派遣する。 

動員する兵力は一揆軍の3倍以上の12万人の大軍になった。 
幕府軍にはたとえ女、子供でも全員殺害せよとの厳命が下っていた。 
そして大乱戦の末、一揆軍は全滅する。 

これが世に言う「島原の乱」の顛末であった。


乱後の島原は・・?、

乱後、島原南部と天草にはほとんど農民がいなくなってしまい、周辺各藩には強制的に人数選抜をして農民を移住させ、藩によっては籤引きで移住者を決めたところもあったという。

その後、この土地の農民は非常に優遇されたため、近隣の諸藩から逆に非合法に流入してくる者も多く、それをまた黙認したため50年後には再び豊かな農村が復興したという。 
しかもこの土地の年貢は軽減されていた上に、古いしがらみのない新しい村が構築されることになったため、日本国内では最も近代的な村が生まれたという。


明治時代、廃藩置県によって一時的に島原県が設立され県庁所在地となったが、島原県はすぐに長崎県に編入された。
その後、島原城も廃城となり破却された(1964年に復元)。


半島の中央部にある雲仙岳は大噴火を繰り返す活火山として有名であるが、1792年(寛政4年)には「島原大変、肥後迷惑」と呼ばれる日本史上最悪の噴火災害が起こり現在の島原市域に大打撃を与え、1万5千人以上の死者が発生している。 

次回、「島原大変、肥後迷惑」   PartVへ

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