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本日の記録・データ

本日・年月日 平成17年6月2日 延日数 第12日
出発地 長崎・小浜温泉 出発時間 8時55分
到着地 熊本・阿蘇市 到着時間 17時20分
天 候 雨⇒曇り⇒晴 体 調
走行道路名 R57、R251、熊本フェリー、県51、R57、県339(清正公道)
主移動地名
小浜温泉⇒雲仙温泉⇒島原⇒熊本⇒阿蘇市
現在(宿泊)地 阿蘇大津・NTT外輪山荘
道の駅・PASA 深江町・本陣ふかえ、大津町・おおつ
温 泉 小浜温泉  雲仙温泉「新湯」  赤水温泉(外輪山荘)
名所・旧跡
小浜温泉  雲仙・地獄めぐり  普賢岳(平成新山災害記念館
島原城   熊本城

写真集U

走行関係(km) 燃料関係(L) 金銭関係(現金円) 金銭関係(カード円)
本日表示 3890 今回入油 38.6 本日支出 10476 本日支出 4902
昨日表示 3779 前回累計 244.5 前日累計 32602 前日累計 67283
走行距離 111 今回累計 283.1 本日累計 43078 本日累計 72185
総距離 389  . . . . .

12日目:PartT(雲仙、深江)   PartU(深江、島原) へ  第13日目へ 日本周遊ブログ 写真集U
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日本周遊紀行(122)雲仙 「雲仙地獄」




写真:雲仙地獄と新湯・共同湯


雲仙には、雲仙地獄を挟んで古湯と新湯がある・・、

昨夜、雨の音を聞いたようだ・・!、 目覚めて気がつくと、やはり小雨が降っている。 
自宅をスタートしてから10日以上になるが、雨の日を迎えたのは初めてであった。 
何となく水不足、雨を期待している四国、特に瀬戸内拠りのことを思い出した。 

久方ぶりのお湿りで結構なことなんだが、今日の行程は実は雲仙の山地へ向かうため余り有難くはなかった。 
雨模様なので慌てず、ゆっくり出かけることにした。


先ずは、いつものように朝湯、浴衣姿でのんびり朝食そしてテレビニュース。 
来年のサッカー・ワールドカップ・ドイツ大会に向けて、数日後に迫った日本チームの最終予選の情報等盛んに報じていた。 
いやはや実にのんびりで9時少々前の出発であり、体調も充分休んだせいか良好のようである。

宿舎のすぐ手前に、山上の雲仙から反対側山麓の島原方面へ抜ける国道51号線を走る。 
雨に濡れて一段と濃さを増した緑の壁を気持ち良く車は進む。 
フルタイムの四輪駆動車なので山道や濡れた路面、チョットの悪路は平気である。 
ヘアーピンカーブが連続する難路も快調に走りぬく、頼りがいのあるマイカーも出発して既に3500kmを越えていた。 気が付くと空模様も何時しか山中の雲が切れかかって明るさを取り戻しているようだ。
このまま晴れてくれ・・!。


山歩きを長年経験してきた小生であり、山の天気にかけては敏感である、と自認しているが・・?。 
一般に天気が下る時は高い方(山上の方)より、回復する時も高所より・・と山の頂上付近を観察する事により或る程度の予報が叶うと思っている。 
端的に言うと富士山の山頂の天気は、近畿地方の天気と同質であるといわれる。 
自宅でも窓から見える丹沢山系の東端・大山の様子を見てて或る程度の予測もできる。  


ここは標高700m前後の雲仙山系で、既に山腹から山上尾根に達しようとしていた。 
灰色の雲の動きも急がしそうで、その上に白雲がたなびいている、回復の兆しである。 

どうやら人家が見え始め別荘風の瀟洒な建物も見える。 
既に火山性の硫黄臭が漂う国道をそのまま進むと雲仙のメインタウン・温泉街へ来たようである。 
華やかさ、派手さはないが、土産屋や旅館が雰囲気よく並んでいる。 
インフォメイション・センターで様子を伺いながら観光案内書を頂く、雨は上がったようであるがこの様子だと雲仙岳や標高1359m、あの普賢岳、妙見岳一帯の景観は残念ながら望めないだろう。


雲仙温泉には、古湯ゾーンと新湯ゾーンがあるらしい・・、 

又、温泉街を取り巻くように火山性噴煙の上がる地獄が有り、「地獄めぐり」が楽しめるという、その地獄を覗にいこう。 
新湯方面の最奥部、新湯ホテルの近くの駐車場に車を置く。朝早いせいか、広い置き場も小生の車のみであった。
この駐車場の奥が、地獄巡りの入り口でもあるようだ。

雨に濡れたドウダンツツジや、蓮華ツツジの林の間に石畳が敷かれて、歩き易く良く整備されている。 進むと火山性のガスが燻って(くすぶって)荒涼とした岩肌が現れた、先ずは「邪見地獄」と銘打ってある。 
見学路以外のところは進入防止、危険防止のため柵が施してある。 

続いて「大叫喚地獄」という大層な名前の地獄に来た、鋭い噴気音と共に高々と白煙をたちのぼらせ、風によって左右になびき、こちらに向かってくるときは咽(むせ)そうになる。 
灰色の熱湯地極池はゴボゴボと間歇的に吹き上がる、ここは雲仙で最も噴気活動が活発な地獄であろう。他にも数箇所の地獄があるが、展望地より周囲を眺めながら一旦戻ることにする。


次に古湯側から巡ってみよう・・、 

の辺りは国道を挟んで両サイドが地獄の様相を呈していた。 
すぐ横の「湯けむり橋」からは岩の間からシューシューと噴煙が立ち上る。 
その先には「清七地獄」というのが在った。
江戸時代初期のキリシタン弾圧によって、キリシタン信仰の厚かった「清七」が、この雲仙の地において拷問されたときに噴出したといわれる地獄だという。 
この地は江戸期にキリスト教が禁止されていた時代、大叫喚地獄と合わせて異教徒の刑場として使われたところであり、キリシタン殉教の地でもあるという。 


「真知子岩」というのもあった・・、

昭和29年、この年は雲仙が国立公園に指定されてから20年の記念の年であった。

当時、最大の話題でもあった映画「君の名は」のロケが雲仙であり、佐田啓二、岸恵子という美男美女が来雲して、この地で撮影があったらしく、これらを記念して命名されたらしい。 

菊田一夫の小説・「君の名は」で大ヒットした映画で、我々往年の世代は昭和初期のラジオドラマで、放送が始まると銭湯が空になったという曰く付きの物語であった。
岩には記念の石版が埋め込まれている。 

「お糸地獄」は江戸時代、お糸という女性が不義密通をし、更に亭主殺したという事件が起こった。このドロドロした状態をなぞらえて命名したのだろう・・?、罰として、亭主殺しの「お糸は」こんな地獄に落されたのかも・・?。 


遊歩道の山肌には、品形良く「ミヤマキリシマ(雲仙ツツジ)」が枝を伸ばしていた。 
本来なら今が花の見頃であるはずだが、噴気地獄で気温が高いせいか、既に赤紫の小振りな花は終わっていた。 

温泉街の北の外れ、左に向けると、「鴛鴦の池」(おしどりのいけ)とも呼ばれる静観の地があった。
人っ子一人いない静寂の地、池は鏡面のように光っていて、周囲は靄(もや)が漂っている。 
鴛鴦の池と書いて何て読むのか、薄学の小生が疑問に思ったが「おしどり」の池と称するらしい。
さすがに“おしどり”こそ見受けられないが、この湖畔に立ち静かに瞑想をするとき、先ほどまで地球の胎動、地獄の噴出しを真近に接したので、この「寂」とした自然の好対照さに驚きながらも安堵を覚えるのである。 
まもなくやって来るだろうと思われる、湖水に浮かぶ「おしどり」に思いを馳せる。


この後は、初めに訪れた「新湯」の共同浴場で噴煙の垢を落そう。 

雲仙にある3か所の共同浴場の一つでもある。
一見したところ民家のような建物で、湯番は常駐しているが、あらかじめ近くの小店で入浴券を買うシステムになっている、入浴料は100円で激安。 

素朴な石張りの浴室に長方形の湯船があり、白濁したお湯が満たされている。
地獄から引き湯したものだそうで、強い硫化水素臭が心地良い。
源泉は噴気泉を直接利用しているらしく、ろ過して使用しているので肌ざわりが柔らかい。主に、地元の人々が利用しているらしいが、我々観光客も気軽に利用できる。


雲仙の歴史について・・、

雲仙山系は古くは「肥前国風土記」で「高来峰」(古来より現在まで、この地方を高来郡と称し、島原半島を南高来郡、諫早・大村地方は北高来郡である)と呼ばれていた山であり、温泉についての記述もある。
雲仙は、元々はただ「温泉」と表記され「うんぜん」と読ませていたらしいが、国立公園指定の際に現在の表記に改められたという。 


奈良期(701年)に行基(奈良時代の高僧)が大乗院満明寺を開いたことが伝えられている。
この満明寺の号が「温泉(うんぜん)山」であることからも、以後、温泉(うんぜん)つまり雲仙は、霊山として山岳信仰(修験道)でも多いに栄えたところでもある。

又、行基は同時に四面宮(現、温泉の主神・雲仙神社)を開いたといわれている。 
祭神は、「古事記」によれば筑紫島(九州)の神をあらわす「一身四面」の神だという。
この神社は上古(大和朝廷から奈良期)には温泉神社、中古(平安期)には四面宮と称されていたが、1869年(明治2年)の神社改正により筑紫国魂神社と改称され、1915年(大正4年)の県社昇格に際して温泉神社に戻したという。

四面宮(しめんぐう)とは、 地元民より「お四面様、お四面さん」と呼ばれて親しまれている。 
四面宮と称したのは、日別命(ヒワケノミコト)と言われる一つの神体に、其々四つの神の面をもつことから言われる。

古事記には、島々の生成説話に伊耶那岐命、伊耶那美命の国生み譚があり、これによると淡路島、四国、隠岐の島の次に「九州島」を生んだとある。
つまり「面四つ」あるとし、筑紫を白日別、豊の国を豐日別、肥の国(肥前、肥後)を建日向日豊土比泥別、熊曾の国(九州南部)を建日別と言うとある。 
又、日別命というのは出雲系の神々であり、大国主に関係が有ると言われる。
大国主の誕生地は有明海に臨む島原半島、雲仙岳の麓であると言う説もあるらしい・・?。

菩薩と言われる「行基」が満明寺を開いた後、同地に出雲の神に遭遇したことから、畏れながら「四面宮」を造営したともいわれる。 
島原半島の中には出雲系の大国主神を祀る「諫早神社」(四面宮の勧請といわれる)をはじめ、10数の分社があるという。 

邪推であるが、雲仙より出し大国主が、「出雲」と命名して国を拓いたというのは、何か共通性を感ずるが・・?、尤も、出雲を開いたのは大国主の父神であるスサノウであるが・・!。
 

その温泉神社は雲仙温泉郷のまっただ中、隣は噴気の沸き出している地獄巡りの散歩道があるところに鎮座してる。 
此れより少し離れたところに摂社・木花開耶姫神社( コノハナサクヤヒメ:天孫・ニニギの妻)が座している。 当社には男女の巨大なシンボルが鎮座しているといい。

この社は元禄の頃より祀られたもので向かって右に女陰、左に男根があって思わずギョッとさせられるという。  
男は挙(こぞ)って自分の持ち物が大きく、太く、逞しくあるように祈り、また女性は「あなオソロシ」とため息をつきながら祈る、そうするとご利益が有るとされる。 

この男根女陰崇拝の風習は長く伝えらてきて、参拝者は家内安全、男女和合、子宝また良縁の神として拝むべしと記されている。


国道を隔てた向かい側に古刹「満明寺」がある・・、

勅許を受けて僧・行基は「大乗院満明寺」を開基し、四面宮(温泉神社)をあわせて祀り山号を「温泉山」としたとされている。
高僧・行基は宝平元年(749年)、雲仙の地で入寂(寂滅に入ること、僧の死をいう)したと伝えられている。 

満明寺は一時、比叡山、高野山とともに天下の三山と云われ、千人の僧を集め、雲仙一帯を霊場として世の崇敬を集めていたともいわれる。 
寛永14年(1637) 島原の乱では、僧の中にも一揆に加わるものが出たため、島原藩主・松倉重政によって滅ぼされた。 
「地獄」はキリシタンの弾圧の舞台にもなり、多くの命が失われたのもこの地、この頃だと云われてる。


雲仙は水蒸気が噴出して硫黄の臭いがたちこめる光景が地獄と形容され、昭和2年頃、日本新八景山岳の部で1位になり、昭和9年には我が国で最初の国立公園に指定された。 
天然記念物の群落である地獄一帯のシロドウダン群落、池の原のミヤマキリシマ群落(ウンゼンツツジ)や野岳のイヌツゲ群落と活火山特有の植物など、まるで自然の大図鑑である。
 
又、明治以降、ヨーロッパや上海の長崎に住む外国人の避暑地としても賑わった歴史も有る。 
春の雲仙はピンク色のミヤマキリシマに埋め尽くされ、夏は当たり一面緑の息吹、秋は燃えるような鮮やかな紅葉が山肌を染め、冬は真っ白の世界に輝き、太陽に映えまる。

雲仙は、四季それそれの日本の自然の美しさを楽しませてくれる パノラマスクリーンであり、 又、どの季節も心地好い温泉に浸りながら、存分にリラックスできる世界でもある。

次回は平成の新山「雲仙・普賢岳」

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日本周遊紀行(123)深江 「雲仙・普賢岳」


写真:普賢岳と火砕流跡


雲仙・普賢岳の噴火で山様が一変し、新たに「平成新山」と名付けられた・・、

雲仙の新湯温泉に浸かり、身も心もさっぱりして雲仙高原を後にした。
下る途中、直に仁田峠へ向かう「仁田峠循環有料道路」というのがあり、厳(いかめしい)しい通用ゲートがあって聞くところ700円が通行料として必要らしい。
二度と来る機会が無いかもしれないので大枚を叩いて訪ねることにした。

さすがに良く整備された道路で、まさしく観光地の峠である。雲仙の真っ只中にあり、標高は1080mと半島の中にある峠にしては思ったより高い。
展望地は深江町と小浜町の境にあり、どうやら、急速に天候も回復したようで、島原半島から九州阿蘇方面までを一望できる。
正面に大迫力の普賢岳、反対側には島原湾方面の雄大な景色が堪能できる。
仁田峠の展望所にはロープウェイもあり、更に絶景を楽しむことができるようだが、さすがこちらは遠慮した。
有料道路を一回りして国道57から深江町方面へ下ってゆく、その後、島原から熊本へ向かう予定である。

ヘアーピンカーブが連続する急坂を慎重に下る。
途中、小さな園地があって「新観光100選の地」と記した石碑が建っていた。 
下界は島原の沿岸から、熊本、阿蘇の山並みが遠望できる。下る合間にあの普賢岳の荒々しい姿が樹木の間から確認できるようになった。 

下るに従って雲仙山麓の東側の深江町からは、普賢岳(ふげんだけ)の全容が一望できるようになった。
道路を選びながら当山と火砕流の跡が克明に見通せる場所を辿った。R57のやや上部、文字通り水の無い「水無川」沿いに車を止めた。


この「水無川」こそ、火砕流の本源・本拠地であった・・、

普賢岳の山頂付近は、溶岩ドームと言われるどす黒い岩肌が折り重なり、白い噴煙が今も吐き続けている。
その下の所謂、富士山型の錐形には流れ皺(しわ)を造って赤茶けた山肌が異様であり、威容である。 
その麓から火砕流、土石流、泥流、地すべり等の様相で眉山、その他の山裾を削りながら流れ落ちている鮮やかな痕跡が今もハッキリ見て取れる。 
直下の小山で二方向に分かれた流れは、下部で再び合体して本来の水無川を乗り越え、大幅な流域を広げながら下部に達している。 
流域幅は、数百米もあろうか・・?、今も延々とした堰堤、土留め工事が進行中のようである。 
流跡は上部では赤茶けた土砂に大石がゴロゴロ浮き出ているような荒涼たる風景で草木の緑は全く見受けられない。ただ下部堰堤付近では所々、短い草の青が確かめられ、多少の年月は感じられる。 


普賢岳は1990年11月に噴火、91年6月3日に大火砕流が発生、大災害となったのは記憶に残る。 
地質学上の調査では推測される現象でしかなかったと云われる火砕流が、現実のものになったのである。
当初発生した小規模であるが、現実の火砕流が発生したということ事態、衝撃的だったことから取材競争が過熱し、ここで世界で初めて鮮明な映像として記録された火山としても有名になった。 
そして、その後に発生した大規模な「大火砕流」に、取材陣や警備担当者が巻き込まれた関係者も多く、本当の衝撃的事故が発生したのである。


火砕流とは・・、

一言で云うと、「火砕流とは、高温のマグマの細かい破片が、気体と混合しながら流れ下る現象」と定義している。

普賢岳の溶岩は粘度が高く、溶岩流となって流れ落ちるかわりに火口付近に大きな溶岩ドームを形成する。
この巨大溶岩ドームが堪えきれずに崩壊する現象が火砕流である。 
火砕流は高熱の火山岩塊、火山灰、軽石などが高温の火山ガス、そして周囲の空気を取り込み反応爆発を繰り返しながら山の斜面を流れ下る現象で、流下速度は時速100kmを越えることもあるという。
また、極めて高温なため火山の噴火現象の中でももっとも危険なものの一つだという。

雲仙・普賢岳の最初の火砕流は、溶岩ドームが現れた平成3年5月20日から4日後に発生している。 次の平成3年6月3日に発生した大火砕流は、巨大な黒煙を上げながら水無川に沿って猛スピードで流れ落ち、北上木場地区を飲み込んだ。 

避難勧告地区内で警戒中の消防団員、警察官、取材中の報道関係者などが巻き込まれ、死者40人行方不明3人という犠牲者を出した。
また、人家や農地、山林などを広範囲に焼き尽くした。火砕流が非常な高温だったため、火砕流の本流に飲み込まれた人々は骨までも溶かされてしまったらしく、行方不明者は大半が遺体さえ見つけられないという珍しいケースとなった。

火砕流はその後も続き、6月8日には更に大規模な火砕流が発生、人的な被害はなかったものの火口から6km下流の国道57号付近まで到達し、207棟の家屋が焼失、倒壊した。 
9月15日には普賢岳北東斜面で最大規模の火砕流が発生、「おしが谷」を下り先端は上木場地区に到り、白谷町まで達したという。

又、火砕流に伴う広範囲な熱風によって、深江町大野木場地区、島原市上木場地区で住宅・山林火災が発生し218棟が焼失、倒壊した。
その後も火砕流は頻繁に発生し、噴火活動が終息するまで実に9432回の火砕流が発生したという。一日最多の記録では平成6年8月25日の68回が数えられるという。

溶岩の総噴出量は2億4千万立方メートル、福岡ドームの135杯分、東京ドームの190杯分。
島原市民は何時果てるともしれない火砕流の恐怖とともに生活が続けられた。


雲仙山系の主峰・普賢岳(1359m)が、山域上部から噴火活動を開始したのは平成2年11月17日頃であった。 
その後、断続的に噴火が起こり溶岩ドームを盛り上げ、新山を形成していった。後に「平成新山」と命名、こちらの方は旧山のそれより高く1489mもある。

現在、噴火活動はようやく収まり溶岩ドームも雄大な景観を持つ雲仙岳の一部となった。
今はまだ両者は別々の山体のように見えるが、やがて新山の方も雑木で覆われて、見る角度によっては双耳峰の様相を呈するようになるのではといわれる。

島原市は小浜町とともに、最初の溶岩ドームが出現して5年目を迎えた平成8年の5月20日に、このドーム部分を「平成新山」と名付け、長く続いた災害と新たな復興の記念としている。 

平成新山の標高は、平成7年6月の1488mをピークに、現在はやや縮小して1482.7m(国土地理院火山基本図より)であり、それでも普賢岳の1359mを抜いて雲仙山系の最高峰になっている。 

平成新山は火口から吹き出した溶岩が冷えて固まったもので、その容積は約1億立方メートル、実に東京ドーム84杯分と言われる熱い岩の固まりが出現したことになる。
噴火活動は終息したが、平成新山の内部はいまだに高温を保っているという。

次回は、火砕流の赤裸々な被害痕跡が保存されてる、深江町「道の駅」  PartUへ

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