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本日の記録・データ

本日・年月日 平成17年6月7日 延日数 第17日
出発地 別府・鉄輪温泉 出発時間 5時50分
到着地 鹿児島県・阿久根 到着時間 17時00
天 候 曇り⇒晴 体 調 普通
走行道路名 大分道、R442、R57、九州道、R3、県27、
主移動地名
別府⇒大分⇒竹田⇒一の宮⇒大津⇒熊本⇒八代⇒
水俣⇒出水⇒阿久根
現在(宿泊)地 阿久根・道の駅「阿久根」
道の駅・PASA R57波野  R57大津  R3たのうら  R3阿久根
温 泉 別府・鉄輪温泉「双葉荘」  阿久根温泉「クアドーム阿久根」
名所・旧跡
竹田  一の宮・阿蘇神社  急流・球磨川  水俣病資料館

写真集 V

走行関係(km) 燃料関係(L) 金銭関係(現金円) 金銭関係(カード円)
本日表示 4573 今回入油 37.5 本日支出 16978 本日支出 4568
昨日表示 4279 前回累計 311.1 前日累計 48017 前日累計 82801
走行距離 314 今回累計 348.6 本日累計 64995 本日累計 87369
総距離 4573  

  17日目:PartT(大分)   PartU(竹田)へ   写真集 V   日本周遊ブログ
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八ヶ岳(1966年)
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日本周遊紀行(135)大分 「高崎山」



「猿園」の入園料は、当時「子供10円、大人は子供なみ」という不思議な文言であったとか・・、

今朝はいつもより早起きして、「双葉荘」滞在中としては最後の入浴も済ませた。 
目覚めてサッパリした後はすぐに出発である。 カッチラかしていた身の回りのものは、昨日のうちに片付けていて直ぐにでも出かけられる体勢にはしてあったし、素敵な宿の女将さんにも事情を話して昨夕の内に清算を済ませておいた。

勿論、旅荘で4日も滞在したのは小生にとっては初めてであったが、せっかくの湯治場滞在だったのでゆっくり、ゆったり手足を伸ばして、もっと長期間のんびり湯治生活を満喫したかったのだが、やはり、周辺観光地に気を取られ、あたふたと巡り巡ってあっという間に過ぎてしまった。 
今度は是非、内の上さんと同行のうえ、ゆっくりしたいものだとつくずく思った。 

今日、出発するには若干の内的の理由(鹿児島で家内と娘家族と合流する)もあった。
まだ、周辺ご近所さん達が活動する以前の、静寂の内に「双葉荘」を後にした。

今日の行動予定は、再び熊本へ戻り九州の西岸地域を訪ねるつもりである。
大分自動車道の別府I・Cより先ず大分を目指す、眼下に見えてる別府の町並みからホンノリ白煙がたちのぼっていた。 
別府の市外を抜けると同時に高崎山の要害が競立っている・・、あの、野生の・・?猿の生息地で有名な。


「高崎山」は既に古文書に書かれていて・・、

「高崎は多加佐岐とよむべし、名の義は高き山の出埼有るによれり」とあり、本来「高き山の崎」という意味で、高い山が御崎(岬)に突き出ているという意味でもある。 
中世には高崎山山頂に大友氏の城が築かれ、併せて、麓に万寿寺別院も建立されている。

高崎山のサル(猿)については、400年ほど昔にはニホンザルが棲んでいたと「豊府紀文」にも記されている。

1952年(昭和27年)、当時の市長・上田 保氏は、地元住民による高崎山周辺農家へ農作物被害を及ぼしていた猿を狩猟しようと試みたが失敗したことを聞き、逆に猿を集めて観光資源として活用することを発案した。 
アイデアは、「池の鯉」で手を叩くと集まる鯉の姿を見て、猿を寄せることを思いついたと云われている。


その当時の大分市は、戦災により商人のほとんどが疎開していたため税収が無い時代であり、高崎山の猿たちは厄介者から一転し貴重な観光資源、収入源となったのである。 
発想の転換、「災い転じて福と成す」を地で行ったのである。 

猿園は、高崎山自然動物園として発足、入園料は当時「子供10円、大人は子供なみ」などと不思議な料金設定であり、そして当の上田元市長はホラ貝を吹いて猿を呼んだという。

高崎山の自然サル園は宮崎県の幸島(宮崎の最南端である都井岬の近く、日向灘に面する小さな島で、この島には昔からサルが住んでいた)と並んで「日本のサル学発祥の地」とされる。

「群れの中で最も序列が高い個体を指す呼称を『ボスザル』から『α(アルファ)オス』に改める」・・、と発表した際にはテレビニュースや新聞で報道され、現在でも群れの動向については地域ニュースや話題になることが多いという。

2004年(平成16年)、高崎山の入り口から猿寄せ場までを4分で結ぶ定員40名で2両編成の小型モノレールが運行を開始し、山を登る手間が省けたという。

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日本周遊紀行(135)大分 「豊の国」



豊の国、豊後の国は、古豪・大分氏が元祖であった・・、

大分の市街北部の大分光吉I・Cまで向かう。
大分市は大分県の中部海岸に位置する市で、勿論、県の県庁所在地である。 
古くは「豊後の国」の国府が置かれた都市で府内(ふない)とも呼ばれた。

古代、大和朝廷の時代には九州は「筑紫(ちくし)の国」、「豊(とよ)の国」、「日向(ひゅうが)の国」と称していた。 
それが律令によって細分化されて、[筑紫の国]が[筑前:ちくぜん][筑後:ちくご]に、[豊の国]が[豊前:ぶぜん][豊後:ぶんご]に、[肥の国]が[肥前:ひぜん][肥後:ひご]に、[日向の国]が[日向:ひゅうが][薩摩:さつま][大隅:おおすみ]の九つに分けら九州の名が付いた。 

九州は日本国発祥の地といわれ、無理やり解(かい)せば「初めに日出るところであり、豊かにして、肥ゆる、国を筑くところなり」となる。


豊の国、豊後の国は既に・・、

九州
の瀬戸内ルートを通して畿内に通じた「海の道」でもあり、東九州の要地であった。 
その古代、既に「大分」の名が見れる。

市内には有名な「亀塚古墳」の他にも多くの古墳があり、これは有力な勢力を持った人が大分にいたことを示しているという。 
その内、三芳地区にある「古宮古墳」は、九州に一つしかないといわれる畿内型終末期古墳(古墳時代:大和時代、畿内地方に多くの巨大古墳が造営されたが、その時代の終末期と呼ばれる)が、ここ「豊の国」にあり、当時日本の政治や経済の中心であった畿内の文化を色濃く反映した地域であったことが伺える。

古墳時代終末期には、既に古墳築造の禁止令(薄葬令=はくそうれい)が発せられていた。
古宮古墳はその最後の頃の古墳であり、誰が葬られているのかは確かな事は判っていないが、当時かなりの権力をもった人物で5世紀以来、賀来川流域を治めていた大分君(おおいたぎみ)の一族で、「壬申の乱」で活躍した「恵尺」(えさか)という人物が葬られていると想定されている。

古事記には「 国造本紀 」の項目の中で、大分君は阿蘇君(火の君)と同様に国造(くにのみやっこ:こくぞう)と同格に列せられていて、九州の地方豪族として中央(都、畿内)にも知られていた。 
国造制とは、6世紀頃に律令制が導入される以前のヤマト王権(大和朝廷)の時代の制度で、地方統治体制(ここでは一つ国を意味する)の下の長官、国の長を意味する。

この時期、大分地方に大分国造が置かれていて、この大分国造になったのが大分君一族であった可能性が高いといわれる。
この時代に起こった中央の勢力争いに豊の国からその代表として「恵尺」が応援に駆けつけ大功をなしたといわれる。


「壬申の乱」とは、672年に起きた日本古代の最大の内乱である。
これによって日本の国の形が造られた。

天智天皇死後、長子の大友皇子(後の弘文天皇)を擁する近江朝廷に対し、吉野にこもっていた皇弟の大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が壬申の年(672年)の夏に起した反乱。
1ヵ月余の激戦の後、大友は自殺、大海人は飛鳥浄御原宮(アスカノキヨミハラノミヤ)に即位し、「律令制」が確立する端緒となる。
この戦いに勝利して後に天武天皇となった大海人皇子は、大分君・恵尺の功績に十分に報いて、死後、恵尺の出身国・「豊の国」(この時期、律令制が発布、豊後の国となる)に古墳の造営を許可されたという。

大分市椎迫(しいざこ)の丘陵、西の台小学校の東に石棺式石室の古墳が今も残る。
この古代大分氏に因んで、明治期に豊後の国が大分県になり尚且つ、大分市と呼称したとされる。
奈良期・国府時代の国分寺跡は「久大本線」の4つ目の駅「豊後国分」駅前に良く整備、復元された状態で見学でき、「大分市歴史資料館」が併設されている。 しかし、肝心の「豊後国府」跡は未だに発見されていないという。 

学説もいくつかあって確定していないが、「久大本線」の駅名にもなっている「古国府」(ふるごう)辺りにあったことは間違いないともいわれ、古国府という地名にもなっているこの地域に遺構が残されているのでは・・?と想像されてる。

次回は、中世の豊後、創始者「大友氏」

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日本周遊紀行(135)大分 「豊後・大友氏」



大友氏は、我が相模の国(神奈川・小田原)の出身であった・・?、

さて、「大友氏」の時代である。 

大友氏は中世・鎌倉初期に東国より豊後に入国して以来、戦国時代の終わり頃までの約320年余り豊後地方の守護職(領主:鎌倉期は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職・しゅごしき・といった)を務めた。 

鎌倉時代は源頼朝が相模の国・鎌倉に幕府を置き、武士階級が天皇・貴族階級と分離して新たな支配体制を創った時代で、開府は1192年のことであった。 
この時期、平安期までの荘園に変わって全国に領主となる守護・地頭を設置し、守護は一国に一人ずつ配置された。 
西国においては、東国から有力御家人衆を派遣、入国させ領地を安堵させた大名としては肥前国の千葉氏、九州探題となった渋川氏、中国地方最大の勢力となる毛利氏、安芸守護の安芸武田氏、日向・薩摩の島津氏、そして豊後国守護に任命された大友氏等であろう。


中国を治めた毛利氏については小生の在住地、神奈川県厚木市より移遷されていったことは中国・山口の項で述べた。 
島津氏については頼朝が幼少時流人の身であった頃、世話をしたのが比企家(埼玉、武蔵の荘)の禅尼であり、その娘(丹後の局)と頼朝の間に産まれたのが島津忠久だという、御落胤である。 
一時畠山重忠に預けられ、後に九州日向の国、島津の荘を賜る。これが九州の覇者、島津藩の開祖である。(更に、宮崎の項で述べます・・、)


そして豊後・大友氏も相模国大友郷が出実であると言われる・・、 

現在の神奈川県小田原市に西大友、東大友という地名が、酒匂川と曽我梅林に挟まれた静観の地域に今も残る。 
大友郷の初代の祖は源頼朝の庶子(しょし:妾腹の子、嫡子以外の実子)か或は、頼朝の側近であった中原親能(鎌倉初期の文官御家人、公家)の猶子(ゆうし・兄弟の子、甥)と言われているが、その中原氏はその土地の名をとって大友氏を名乗っていた。 

豊後はかっては平家の基盤であり、平家没落後も平家武将が多く残存していた。
その九州に対する抑えの役割が必要であり、その監視と抑えに大友氏が派遣されたといわれる。
豊後地方は、室町期から戦国初期までは大友、大内(周防・山口県の守護大名で、豊前の守護職も兼ねる)、少弐(しょうに:筑後の守護大名)の三国抗争が続くが、戦国期、大友義鎮(大友宗麟)が勢力を伸ばし、一時期は豊後を直轄支配地とし更に豊前・筑前・筑後・肥前・肥後を勢力下にして九州北部を領有するまでになる。


大友宗麟について・・、

大分・豊後といえば大友義鎮(よししげ=宗麟、鎌倉の初代から21代領主)で、キリシタンを保護し自らも改宗して歴史に名高いキリシタン大名となっている。 

フランシスコ・ザビエルをはじめとするポルトガル人宣教師やポルトガル商人が宗麟のもとに、当時、府内と呼ばれていた現在の大分市に頻繁にやって来た。
又、自らも当時世界の最富強国であったイスパニア・ポルトガルなど日本人として初めてヨーロッパに渡り、世界の指導者らと会見している。 宗麟の外交使節の役割は文化、宗教史上に留まらず交易を含む多方面にわたったとされ、当時としては画期的であったという。
戦国時代の国際都市であった豊後は、日本初の西洋式病院を設けられるなど南蛮文化が花開き、大分の全盛時代を築き上げた。

反面、キリシタンであったがため、元来より八幡信仰や仏教信仰の篤い家臣団との軋轢を生じることにもなる。 宗麟はキリスト教の理想国を建国するという計画に没頭しはじめるが、しかし、このことが遠因となって、やがて没落の道を辿ることになる。


この頃、隆盛著しい「島津氏」が勢力を伸ばし、九州制覇へ向けて動きだす事になり、豊後を侵攻するようになる。 
後に、宗麟は圧倒的勢力の島津氏との正面対決により大敗北を喫し(耳川の戦い・詳細は後報・・)、豊後から退却する結果となる。 あと一歩で大友氏の息の根を止めるところまで追い込んだ島津だが、豊臣秀吉による九州征伐で九州は平定され、大友氏は縮小されながらも豊後一国を安堵される。 この時期の1587年、宗麟は58歳で生涯を終えている。 

その後の大友氏は秀吉の朝鮮出兵の際、失態により改易、更に、江戸期には一旦、旗本取り立てられるが、その子の義親の代になって無嗣(家督を相続する子がいない)のため事実上大友家は滅亡する。改易とは、所領や家禄・屋敷を没収せれることで、特に江戸時代の刑では蟄居(チツキヨ)より重く、切腹より軽いといわれる。 


大分市顕徳町三丁目周辺に、豊後国府といわれる大友氏館跡や大友氏の菩提寺である万寿寺跡の遺跡が在り、現在も発掘調査が行われているという。 館跡は北部九州六カ国の守護職を務めた大友宗麟の館跡で、京都の室町将軍邸をモデルに造られた守護館の典型的な姿であるという。 
その歴史的価値の高さから、「大友氏遺跡」として国の史跡に指定されている。

大分市は、2005年1月に北海部郡佐賀関町、大分郡野津原町は大分市に編入され、新「大分市」発足している。


佐賀関町は大分市の東方、豊後水道に突き出した三角形の町で、対岸の愛媛県佐田岬半島へは豊予海峡を挟んでわずか14kmの距離である。 
東九州の玄関口であり九州でもっとも四国に近い町であり古代よりの要港であった。 

そして、握り寿司などでもお馴染みの 「関あじ・関さば」の産地でもある。 
豊予海峡は急流うずまく「速吸瀬戸」(はやすいのせと)とも呼ばれる好漁場で、ここで育った魚類は身がしまって絶品であるという。

又、野津原町は大分の南部に位置し山間の静かな町で、町域の中心を竹田に向かって国道442号が走る。 
又、矢の原から県道412号が国道と並行して走る。 この道は豊後街道といって、江戸期は肥後熊本城主・細川氏や豊後岡藩主(竹田藩)・中川氏の参勤交代道路として利用されていたことは先に述べた。 

南部に位置する「今市」はこの豊後街道にあり、中川氏が岡藩の宿場として設けた宿場町でもある。 
今も、当時の名残の石畳が道路の真ん中に続いている。

その豊後街道から竹田を目指した。

次回は、「竹田」   PartUへ     


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