日本周遊紀行



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 22日目:PartU(佐土原、日向)  PartV(美々津、延岡)へ     写真集W  日本周遊ブログ
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日本周遊紀行(164) 佐土原 「野田泉光院」



野田泉光院は、西の松尾芭蕉とも呼ばれていて・・、

鎌倉末期の1335年、領主・伊東祐聡(祐明から4代目)は、佐土原町上田島の一角に「大光寺」を建立し、以降、伊東氏代々の菩提寺とした。 後に戦国期、領主が島津氏に代わると以降、島津氏の菩提寺になっている。 寺院は、国の重要文化財に指定されている名刹でもある。

この古寺・大光寺の山手の静かな森の一角に「野田泉光院」の墓がある。
「泉光院」は、佐土原の真言宗・安宮寺(新城地区に在った今は無き寺跡〉の八代目住職で、寺跡には、日本九峰修行供養塔があり、彼自身の墓は大光寺境内にある。 本名を野田成亮(のだしげすけ)といい、泉光院とは修験者の院号である。 
野田泉光院は、当時の最高水準の知識人であり高僧だったという。


野田泉光院の全国旅日記・・、

1811年(文化8)、56歳の時に斉藤平四郎という30代の男性を従え、6年2ヶ月にわたる全国の山伏寺を回る旅に出た。
泉光院は、西の松尾芭蕉とも呼ばれていて、後に、『日本九峰修行日記』を著している。
その日記は、当時の庶民の姿を知る貴重な資料となっている。

作家・石川英輔氏が、野田泉光院の『日本九峰修行日記』を、ノンフィクションに訳して「泉光院江戸旅日記」を著している。


『泉光院江戸旅日記』の書が新聞の広告に出るなり、興味八百と旅好きの小生は早速買い求め、熟読し、大切な蔵書の一角を占めている・・、 


副題には『山伏が見た江戸期庶民のくらし』となっていて・・、

帯紙には表側に「文化文政の6年間、南は鹿児島から北は秋田まで日本を歩き回った僧・泉光院の見聞録」とあり、裏側に「泉光院の足跡⇒佐土原⇒宮崎⇒鹿児島⇒指宿⇒阿蘇山⇒長崎⇒名護屋⇒彦山⇒中津⇒小倉⇒長府⇒萩⇒広島⇒津和野⇒大山⇒鳥取⇒大江山⇒丹後半島⇒三方五胡⇒伏見⇒京都⇒福知山⇒姫路⇒大阪⇒草津⇒白山⇒金沢⇒能登⇒富山⇒野麦峠⇒松本⇒身延山⇒甲府⇒江戸⇒秩父⇒前橋⇒日光⇒浅間山⇒戸隠⇒立山⇒鶴岡⇒出羽三山⇒本庄⇒金華山⇒仙台⇒山形⇒那須野⇒筑波山⇒成田⇒銚子⇒鎌倉⇒箱根⇒下田⇒富士山⇒岡崎⇒岐阜⇒伊勢⇒白浜⇒和歌山⇒吉野⇒高砂⇒岡山⇒今治⇒大分 他」とある。


主人公は56歳で当時としては老年といっていい高齢であること。 
執筆者の山伏は出発当時、高地位にある寺院の住職で、大先達(修験者の峰入りなどの先導者)という高位の山伏として日向一国の山伏を支配するという階級であったばかりか、佐土原の島津家の縁者として禄も受けており、佐土原では弓術の指導などもしていたという人物であった。

本人著書の『日本九峰修行日記』の興味深いところは、そのような有能な人物が敢えて貧しい人々の間を托鉢・修行をしていて、記録の中から当時の一般の人々、特に農民の生活の一端が伺えるあたりにある。 
長いたびの間、斉藤平四朗というお供が付いているが、この男は佐土原の町人で、ある種、道楽人であったらしい・・?。


旅は経路を現在の地名と照らし合わせつつ、当時の一般の生活を浮き彫りにしようという主旨で書かれている。 
この住職(泉光院)は6年間、ほんとにまめに日記を付けていたらしく、行程は本著の帯紙の通りで、南は鹿児島から北は秋田の本庄(本荘市)まで、日本中を歩き抜いている。 

更に驚くべきは、日本の名だたる山岳聖地を登攀しているのである。 そのことは、彼が著した旅日記・『日本九峰修行日記』には、多くの山名も記載されている。

作者は旅日記を「修業日記」と題したように、修業、参詣の宗教的目的をもって回国している。登山もこの宗教的目的の下におこなわれた。 回国修業の登山によって当時として一流の登山家とも考えられている。

山好きの小生としては興味あるところなので、その内容を記してみる。


野田成亮の日本九峰とは・・、

西より英彦山、石鎚山、箕面山、金剛山、大峯山、熊野山、富士山、羽黒山、湯殿山である。
これらは何れも国内有数の山岳霊場で、世に知れ渡っている名山である。 しかし、これら九峰修業の旅以外で、彼はもっと多くの山に登拝しているのである。

九峰以外の主な遍歴の山を列記すると・・、
九州・・阿蘇山 太郎岳(多良岳)黒髪山 求菩提山(くぼてやま) 
山陰・・妙見山 大江山 三滝山(三岳山) 
山陽・・後山 瑜伽(ゆか)山
近畿・・比叡山 朝熊(あさま)山 愛宕山
北陸・・白山 石動山 立山 
東海・・光明山 秋葉山
信越・・浅間山 米山   
関東・・行道山 中ノ岳(妙義) 八溝山 加波・足尾山 筑波山 鹿野(かのう)山
奥羽・・月山 鳥海山 金華山 水晶山

等等・・、

引き続き、「野田泉光院・旅日記」

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日本周遊紀行(164) 佐土原 「野田泉光院・旅日記」



「厳重を極めたといわれる箱根の関所も、江戸後期ともなると・・、」 野田泉光院の「日本九峰修行日記」より・・、


因みに、作家・石川英輔氏の「泉光院江戸旅日記」の中で、小生の居住地である神奈川県厚木市近郊の“くだり”について記してみると・・、

『 文化十四年丁丑(ていちゅう)元年:西暦1817年2月16日・・五月八日(6月22日)〜十日(24日)鎌倉の主要な神社仏閣巡り・・・藤沢から寒川泊まり、 十一日(25日)相模一の宮(寒川神社)そして四之宮(平塚・前鳥神社)を参回している。 ここでお供の平四郎が二と三はいいんですかい・・と理屈をいったが、泉光院は無視している−−平塚八幡、坂東札所・金目山(第七番・光明寺)へ参って納経印をもらいに行くと、住職に笈仏(箱に収まっている戒名)を開帳して欲しいと頼まれた。 長々、読経せられたり・・。石田村(伊勢原市石田)の浄心寺泊り。 十二日(26日)大雨なので、「憂きことの はてや旅路の 五月雨」と一句作ったら、住職が見て、それほど雨が難儀なら、もう1日いなされ、といってくれた・・、幸いなりと滞在す。かようなるときは発句も役に立つものなり・・。 十三日(27日)、アツ木(厚木市)へ出て相模川を船で渡り、相模国分寺(海老名市国分)参詣。坂東札所・星の谷(第八番星谷寺・座間入谷)の門前に泊まった。 十四日(28日)、坂東札所・飯山寺(第六番・長谷寺(厚木市飯山)、日向薬師(伊勢原市日向)に参り、門前に泊まった。 十五日(29日)大山不動尊(伊勢原市大山)に参詣、菖蒲団子というものを買うて数十匹の犬に食わす・・。 尾尻村(秦野市尾尻)の寺に泊めてもらう。 十六日(30日)十六日坂東札所・飯泉山(第五番・勝福寺 ・小田原市飯泉)参詣。酒匂川を渡って塚原村(同市塚原)泊まり。 十七日(7月1日)この家に笈(背負う荷物箱)を預けて道了尊(最乗寺)へ上って参詣す。――― 十八日(2日)箱根山を登って関所を通ろうとしたところ、引っかかってしまった。  役人「その方ども、江戸屋敷からの関所手形を出せ」 「われわれは日本回国の行者で往来手形はあるが、他には存じませぬ」 「 江戸屋敷へ行って頼むことが出来るはずだ・・」 「 江戸屋敷は存じません、又、お屋敷へ出るほどの身分ではございません」 「そのほうら名を何と申す・・」 「私は一葉坊、この者は合力助と申します」 「今回は内聞で通してやる、次回はそうはいかんぞ・・!!」 「へい・・」・・泉光院が名乗った一葉坊は俳号であった・・、役人とのやりとりが面白いし、関所も、そこそこいい加減であったことが判る。 』

以上、本文よりであるが神奈川県の鎌倉へ入って、箱根を出るまでの神奈川県央、県西部にかけて11日間を要している。 
その気になれば山道を1日60kmをも平気で歩き通せる頑健な人であるが、この相模地方は意外とゆっくり、じっくり歩を進めていることが判る、見所が多かったのであろう。

因みに、坂東札所・星の谷(第八番・星谷寺・座間入谷)には、当時のメモ帳なる「つづれ草」が置かれていて、ここを訪れた泉光院のことが記されている。

『 「つづれ草」37号に書いた「野田泉光院」の廻国修験僧、日向の国・佐土原の泉光院が星谷寺に参詣した文化十三年五月十三日当時の住職は「周應」であったはずである。在住期間も長いし、過去帳を整備するなどの事績もあった 』、とある。

気が付くのは泉光院が記した『日本九峰修行日記』には文化十四年五月十三日とあるが、星谷寺の記録には文化十三年五月十三日になっている、丁度一年違いになっているが・・??。


佐土原は中世の頃、伊東氏から島津氏へと領主が代わっている・・、

鎌倉時代において佐土原・伊東氏は、鹿児島で勢力を伸ばしてきた島津氏と日向の支配をめぐって激しい戦いが繰り広げられ、徐々に島津氏が優勢となり、遂に伊東氏は豊後国へと追い払って島津の支配が始まる。 

戦国期の最初の佐土原城主は島津家久、次いで江戸期には、その子豊久に引き継がれ、島津の支配体制が整っていく。 
野田泉光院の全国行脚の時期は江戸後期であり、当時の佐土原は島津の支配下にあって、島津氏の相当の援助を戴いてもいる。

江戸後期の泉光院行脚中、伊能忠敬が「大日本沿海輿地全図」を完成しているし(1814年)、当時の文
化・文政の時代(1800年前期)には、十返舎一九が「東海道中膝栗毛」初編を著し(1802年)、間宮林蔵が樺太を探検している(1814年)。 
又、葛飾北斎の「富嶽三十六景」ができ(1832年)、歌川広重の「東海道五十三次」ができる(1833年)など、各階、各層の人々の諸国漫遊も盛んであったようである。

2006年1月「佐土原町」は宮崎市に編入、合併特例区(市町村の合併の特例)に指定されている。

次回は、日向・美々津

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日本周遊紀行(165)日向 「耳川の戦い」



九州の「関が原」と言われる「耳川の戦い」が・・、

国道10号線を快適に北上する。

川南町、都農町は日向灘に開けた明るい地域で、大部分が台地状の所謂、西高東低の、ゆるやかに傾斜した高台となっている。 
広大な畑作が広がっていて、きっと南国豊かな農業生産が主体の地域であろうことが想像できる。
日豊本線を跨ぐように、直線の高架線が走っている。 
以前になるが日豊本線の都農駅から美々津駅まで、リニアモーターカーの実験が行われていた所らしく、現在は、実験の舞台が山梨に移されていて、施設は取り壊されることなく現在もそこに居残っているのであろう。

まもなく、日向市に入り「美々津」という港へきたようだ、清流・耳川の河口に当る。
耳川は一般の川の趣きとは異なり、巨大な中州を持つ湖のような泰然とした川である。 川面は珍しく、青緑、エメラルドグリーン、黄緑と天候や見る場所によって色が変化する不思議な川だという、五色川ともいうべきか。 

耳川は、九州山地(椎葉村三方山)に源を発し東へ向かって宮崎平野を流れ、日向市美々津町から日向灘に注いいでいる、長さ100kmの水系で美々津川とも呼ばれる。

この川に「幻の魚」と呼ばれる、「アカメ」という魚が生息することでも知られてる、スズキ目アカメ科の魚で、名前の通り目が赤く、北川、耳川のほか、高知県の四万十河口域など汽水域に生息し、体長1メートル、重さ20kの巨大魚になるという、地元では“マルカ”とも呼ばれているらしい。 
尤もアカメは、ここ数年は魚影が見られなくなって、2007年には環境省のレッドリストの中の「絶滅危惧種」に指定されているとか・・。


「耳川」は、河川流通路としての重要な地位を占めていた・・、

江戸期、この地方の産物である木材や炭を高瀬舟で河口の美々津に集め、大型船・千石船で大阪方面に送り出していた。
当時の美々津はそれら特産物の積出港として大いに賑わい、元禄年間には回船問屋や商家が数多く軒を連ね、「美々津千軒」とも呼ばれるほどの繁栄ぶりであったという。

現在、美々津、耳川の南部、国道10号線と海岸に挟まれた狭い一角は、江戸時代の回船問屋や明治、大正、昭和初期の商家などが数多く残されれており、当時の隆盛ぶりを知る事ができる。 
中でも現在、日向市歴史民族資料館となっている元廻船問屋・旧河内屋は間口が広く、美しい京格子と白壁で当時の繁栄を偲ばせている。
この美々津の町並みは、1986年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。


古戦場・耳川の戦い・・、

耳川の中流域は「奥日向」とも呼ばれて、鄙びた景観を呈しているが、この周辺は古戦場としても今なお秘められた足跡を残している。 

戦国期の天正6年、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(木城町)を主戦場として激突した合戦で、「耳川の戦い」とも云われる。

九州の覇者「大友氏」(九州探題)と九州南部に勢力をもつが北部への進出口を押さえられている「島津氏」、この両者が九州の覇権をかけて戦いで、主戦場は「高城」(現、木城町南部)と、そこを流れる小丸川を境に両軍は対峙することとなる。 

激戦の末、勝敗は大友軍が三千余の将卒を失い、壊滅状態となって敗退した。 
大友方は、さらに敗走する途中、城の北方の耳川で島津軍の迫撃に合い、戦死者の総数は二万人にも達したともいわれる。 結果は、島津氏が勝利し九州の覇権は島津氏に移って行くが、更にそのことが起因して、天下を平定しつつある豊臣秀吉の九州出兵を促す原因となる。 
結末は秀吉軍が島津を抑えて、九州地方は平定されることになるのだが・・。

ところで、この合戦に島津勢が勝利した戦いを「耳川の合戦」と呼ばれるが、一方では、主戦場は耳川ではなく、宮崎県児湯郡木城町にある「高城」と城下の高城川(現在の小丸川)であることから、「高城の戦い」とするのが妥当とする向きもある。 

耳川と高城川は、凡そ20キロの行程幅であるが、豊後地方に勢力をもつ大友軍から見ると、この耳川は南進北帰の生命線であり、そしてこの地で追撃する島津軍に完敗した地であることから、「耳川の合戦」が妥当であるとも言われる。

その後、九州攻略のため本州勢力の秀吉軍が大挙して島津軍を攻める際、この時の主戦場がやはり「高城」であった。 
この時、秀吉の先鋒として戦ったのが大友の残兵(大友義統)でもあり、結果、秀吉軍が勝利したため大友家は一国を安堵されている。 

この戦も「高城の戦い」と称している。

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