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日本周遊紀行(26)知多 「羽豆岬」



河和を過ぎたあたりから、海の青が濃くなったような気がした。
外海が近くなったせいかと思ったが、上空が晴れ渡ってきて空の青が海の青を一層際立たせているのだろう。

南知多の先端の港、師崎港を左に見ながら岬の先端へ向かう。 
立派な駐車場があったが、有料だったのでミニ公園の入口部に車を止めた、一応駐禁の場所であったが・・!。 

「羽豆神社」の石段が目の先にある。 
丘の方角からあまり上手とはいえないペット(トランペット)の音色が心地よく響いてくる。
社の前で一礼して、その横に中年のおじさんがペットの子犬を同伴して練習に励んでいた。

「コンチワ・・やってますね・・!、展望台へはこちらでよろしいですか・・?」
「耳ざわりでスイマセン・・、はい、今日は空気も澄んでて見晴らしは良いですよ・・!」
「どうも・・」、気さくな一声に、気さくな返事が返ってきた。

途中、緑の林を歩く・・、これは天然記念物の「うばめがし」という木で、「姥目樫」と書くらしい。 

ブナ科の常緑高木で高さ8〜9mに達し、暖地の山地や海岸に生える特性があるといい、幹は直立しないで横に伸び、葉は小形で硬い。雌雄同株で5月頃黄褐色の小花をつけ、果実はドングリ状で渋味少なく食用になるという。 
材は堅く、火力の強い木炭に適し、若芽はタンニンに富み、付子(ふし・タンニン材として薬用・染織用・インク製造用に供する。昔はその粉を女性が歯を黒く染めるのに用いたという。お歯黒)の代用として重宝された。 

この辺り一帯の社叢(しゃそう・神社の森)樹林は、国天然記念物に指定されているという・・。 


数分の遊歩道の緑のトンネルは、別名「恋のロマンスロード」と呼ばれているらしい。 
歩いていると、キラキラと輝く海が見えてきて、木々のトンネルを抜けた先に展望台が現れた。
ここからの眺望は360度、圧巻そのものである。
師崎港を眼下に、篠島・日間賀島は目の前だ、東に三河湾、南に伊良湖岬・神島・鳥羽・伊勢を望み、西に伊勢湾・鈴鹿の山並みも一望される。
又、波紋のきらめく中、中小の船の往来が長閑(のどか)である・・。


知多半島の先端部である師崎(もろざき)地区は昔から尾張国の支配者との関係が深かった。
その象徴であるのが羽豆神社で、今は「うばめがし」に囲まれて静寂の中に鎮座している。 
社の創建は7世紀、延喜式内(平安期に制定された神社の格式、序列)に列する古社で、祭神は「建稲種命」(タケイナダネノミコト)といって尾張氏の祖神に当たるという。

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が景行天皇より東国平定の命を受け、尾張国初代の尾張国造(くにのみやつこ)の子である建稲種命を副将軍として東征に向かったという伝承がある。
東征の帰途、水軍を統率した建稲種命が駿河の海で命を落とし、その衣服が羽豆岬に漂着したといい、それを神体として岬に祀ったのが羽豆神社であるという。

羽豆岬は日本武尊の東征における建稲種命の尾張水軍の拠点でもあり、江戸期、尾張徳川家累代義直公、頼宣公、光友公、義誠公、吉通公が参詣した水軍の祭神でもある。


又、神社の後方には、克って「羽豆城」があったという・・、


南北朝時代、南朝方の千秋昌能(せんしゅうまさよし)によって築城されたという。 
千秋氏は藤原南家(奈良時代における藤原家の家系)季範(すえのり)の子孫で、その娘は源義朝に嫁して頼朝を生んでいる。

羽豆城は南朝方が東国より吉野に入る中継地としても利用され、宗良親王(むねながしんのう・後醍醐天皇の皇子)、新田義貞など著名な武将が羽豆城に滞在したという。 
羽豆城主を継いだ二男の加賀守季忠(すえただ)は織田信長の武将として活躍するが、永禄3年(1560年)桶狭間の合戦で今川軍の先鋒隊と戦って討死している。 
その子季信(すえのぶ)は、信長の命により熱田大宮司職に専念した。

元々、千秋家は熱田宮司職の一流であったとされている。 
戦国期は水軍の拠点として盛衰をたどるが、江戸期の安定期に入ると次第に重要視されなくなり羽豆城は廃されていった。


羽豆岬周辺の海岸線は、伊勢湾口の海上権をおさえる拠点として古代より政治的・軍略的・経済的に海運交通を統制・監視する上において地理的に重要な位置を占めていた。 
そんな羽豆城は、灯火の役目も担っていたのかもしれない。 

しかし現在、この地に灯台が無いのは些か不思議な気がするが・・?、現在、城跡を示すものはの石碑の他は何もない。

先ほどのペットのおじさんに一言礼を云って、羽豆岬を後にした。



小女子(こうなご)と大女子(おおなご)・・?、


知多半島の西部海岸道は伊勢湾を見ながら実に温和で良い、この海岸近郊地域は海の楽しみもも多そうである。 
内海の千鳥ケ浜は、東海随一とも呼ばれる砂の美しい海水浴場で、海水浴シーズンには名古屋方面から100万人の観光客が訪れるという。 

又、温泉も在る、南知多温泉郷といって内海、山海、豊浜地区の総称をいう。 
天然温泉は地下1300mに眠る化石温泉で近年掘り当てたもので、薄茶色のナトリウム・カルシウム塩化物強塩泉で切り傷、火傷、慢性皮膚病等に良いとされる。

道中、天然温泉「白浜の湯」の日帰り温泉ランドが目についたが、入館1200円とチョッとお高いので遠慮した。


道々、「こうなご」の看板が目に付いた・・、


小さな女の子」と書いて、関東地区同様、小女子(こうなご)と呼ぶようだ。 
この伊勢湾も特産地の一つで今頃(5月〜6月)が旬、獲りたてで乾燥したものを、これまた東海地方(愛知・岐阜・三重)で代表的な醤油の一種である「たまり醤油」(少量の小麦を加えるか、又は大豆のみで製造しる、そのため他の醤油に比べ、うまみ成分が多く、味がまろやかで濃いといわれる)で調理し、「つくだ煮」にして食すのが絶品らしい。

小女子(こうなご)は「イカナゴ」のことで、小さいものを小女子と称しているようで、成魚のイカナゴを大女子(おおなご)と字をあてる地方もあるとか。 
名前の由来は「いかなる魚の子なりや」と問うに、何の魚の子か判らなかったことから「イカナるコか・・」が、イカナゴと呼ばれるようになったという俗説がある。 

瀬戸内海の明石海峡あたりが本場らしいが、地形や汐の干満、風によって発生する潮目のところに多く産するという。
潮目にはイカナゴを含めて様々な魚が集まるり、エサとなるプランクトンが豊富であることから。 
因みに、似たような小魚に「ちりめんじゃこ」というのもある。 こちらはイワシの稚魚で、良く見ると頭の形が違うらしい。

次回は、野間・「縁と因縁の地」

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日本周遊紀行(27)野間 「縁と因縁の地」



野間は、「縁と因縁」の今昔の地・・、


内海を過ぎて間もなくすると道路のすぐ横の海岸に、いきなり灯台が現われた、「野間灯台」と記されていた。
ほぼ渚の磯の上に立つ白亜の灯台は、伊勢湾を航行する船舶のよき道しるべとなっていて知多半島のシンボル的存在であろう。 

しかし何故か、この灯台の周囲は鉄のフェンスで囲ってある。
このフェンスを良く見るといろんな形の錠前(主に南京錠)が多数引っ掛けてある、しかもその錠に男女のカップルの名前が記され、何事かメッセージが書いてある。 

何のことはない、ここは恋が成就する願掛けの灯台だったのである。 
以前、ある週刊誌に興味本位に描かれたのをきっかけに今年になってどんどん増え、しかも町が広報誌で宣伝したから、なおさらブームにもなっているとか。

野間灯台の明りに照らされ、錠(情・・?)でしっかり結ばれて離さない、何とも男女間の機微、情の景は理解できるが・・?。
この先の奥田の山中に「恋の水神社」というのがある、多くのカップルや若者がお参りに来るという祈願社で、あらゆる病気、特に「恋の病」に効くといわれ、そこには「恋の水」が湧いているともいう。

美浜町は名称からしても、何ともロマンチックな街のようである。



こちらは往時の因縁の地でもある・・、


源義経、頼朝公の実父「源義朝」はこの野間の地で命を落としている。

義朝は京都六波羅の合戦である「平治の乱」で平清盛に破れ、この野間の地に落ちのびてきた。ここで家臣の長田忠致、景致親子による裏切りで入浴中に謀殺されている。
丸腰だった義朝は「我に小太刀の一本でもあれば討たれはせん」と言い残して果てたという。
国道の奥まったところに7世紀に創建された古刹「大御堂寺」があり、源義朝公御廟がここに祀ってある。 

嫡男・頼朝公は鎌倉幕府、開府直前にこの地に参り、父義朝公の法要を執り行い、境内の様々な伽藍建立されたという。 
その後、秀吉、家康の庇護を受け更に繁栄し、現在尾張地方随一の祈祷寺として人々に広く信仰を集めているという。  

家臣の謀反により殺された義朝公の墓には、その霊を弔うため今も有志者によって木太刀が多数供えられている。 
あの時、「小太刀の一本でもあれば・・」と無念の想いを託して奉納するのであろうが、木太刀は廟のすぐ近くで、サイズをいろいろ取り揃えて販売されているようである。 
寺社関係者の商魂逞しき・・、と言いたいところだが。


野間灯台の錠前、義朝廟の木太刀といい、これらを持ち寄って信仰の意志を伝える日本人的精神活動には、何かの共通点が見える気もするが・・?。


この大御堂寺には、もう一つの因縁事件があった・・、


戦国期の本能寺の変(1582年、織田信長の重臣・明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺において主人信長を討った事件。

天下統一を目前にした織田信長は命を落とし、日本の歴史を変える出来事となる)の後、織田信孝(信長の三男)は光秀を滅ぼしたという功績にも関わらず、清洲会議で織田家の後継者は羽柴秀吉によって三法師君(幼少・信長直系の孫・秀信)に決められてしまう。

この処遇に不満をもった信孝は家老の柴田勝家らと結び、秀吉に対して挙兵するが、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れて信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺に送られ蟄居させられる。

後に秀吉に切腹を強要され、この地で自ら自害して果てた・・、享年26。

辞世の句に・・、


『 昔より 主をば討つ身(内海)の の間(野間)なれば
                        報いを待てや 羽柴筑前
 』

自分の身を、家臣に裏切られ殺害された源義朝になぞらえ、羽柴筑前(秀吉)に対する憎悪を剥き出しにした壮絶な歌である。

美しき知多の浜において、昔、壮絶な人間模様があったようだが、今は男女の色模様で賑わいを見せている。 

そんな事を知ってか知らずか、今も伊勢の海はキラキラと輝いている。

次に常滑の焼物とセントレア・・?

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日本周遊紀行(28)常滑 「焼物とセントレア」



焼き物の町「常滑」に巨大施設が出現・・、


国道247は常滑市へ向かう・・、

三河湾の蒲郡を起点としたR247は湾岸沿いから知多半島をグルッと一周して、ここ常滑の原松町が終点となる。

常滑は、古来「常滑焼」で知られるが、ここは「陶郷町」というから、その名のとおりで、常滑焼のふるさとである。 
常滑市陶磁器会館、登窯広場・展示工房館、INAX窯のある広場・資料館、INAX世界のタイル博物館、常滑市立陶芸研究所、常滑市民俗資料館、常滑焼・卸団地(セラミック・モール)等々の観光展示資料施設が集中している。

今も高くそびえる十本煙突や楝瓦の登り窯やなど見所も多く、陶磁器会館をスタートする「焼き物散歩道」の途中には、土管や焼酎瓶の瓶などを土留めとして埋め込まれた坂道が在り、「土管坂」と称して名所の一つにもなっている。


常滑焼は、日本の六古窯(常滑・瀬戸・信楽・丹波・越前・備前)の一つといわれ、平安時代には常滑を中心にして知多半島の丘陵地のほぼ全域に窯が築かれ、当時の六古窯の中では最大級の生産地であったという。 

室町時代に入ると、窯は常滑地区に集まり、生産品も大型化する、その大型化したカメや壷は交通の要衝である知多半島の各港から船で日本全国に運ばれた。

現在では製品も、花器・茶器・招き猫等の置物・ガーデニングなどに使われる園芸鉢・茶碗等の和食器・フリーカップ等の洋食器等、多種多様の焼き物が生産されている。 
今も小生宅で使用している赤褐色の急須は、朱泥焼(中国江蘇省宜興窯に産する、赤褐色で無釉締焼の陶器のこと。
土質緻密、セツキ質になるまで焼いたもので、多くは茶用の急須にする。愛知県常滑焼)の技法といって常滑焼の代表的な製品になっているとか。



常滑市は最近、もう一つ巨大な施設が御目見えした・・、


原松町の信号を左折して陶磁器会館の前から海岸に近ずくと、新装なった高速路に出る。 高速にのってそのまま海上方向に行くと、海峡大橋から海に浮かぶ巨大な地域が目に入ってきた、 空港島「セントレア」である。


セントレア・・?? この海峡大橋も実はセントレア大橋という・・!!。

中部国際空港(ちゅうぶこくさいくうこう、Chubu Centrair International Airport)で、愛知県常滑市沖の伊勢湾海上にある第一種空港である。

セントレア(Centrair)は中部(Central Japan)と空港(Airport)を組み合わせた造語の愛称で、同空港管制の無線呼出名称(コールサイン)であるとか。

因みに、第一種空港とは、東京,大阪等我が国の航空輸送ネットワークにおける基幹空港・国際空港のことで、第二種は主な地方空港、第三種は一般地方・島部空港等である。


中部国際空港の開港は、2005年名古屋における日本国際博覧会と並ぶ名古屋圏の二大事業として話題を集めており、開港と同時に開業初日である2月17日には10万人が押し寄せたという。 
そのため利用客や見学客で商業施設、その他が大変混雑し、飛行機利用者の中から不満の声も挙がったという。 
混雑の理由に、空港以外の機能も充実していることや、「飛行機を利用しない方も大歓迎します」という空港側の宣伝効果も挙げられたという。 

空港の立地形態は大阪湾に浮かぶ「関西国際空港」と類似しているようだ。


「南セントレア市」という行政地域名・・?、

ところで、「平成の大合併」のことは、この項で何遍も記したが、最近、話題をにぎわしたのは幻の「南セントレア市」騒動であろう。
 「南セントレア市」は美浜町と南知多町の合併後に予定された新市名であった。
この名称は合併協議会が、無論、中部国際空港の愛称「セントレア」にちなんで決めたものであろう。

ところが、この新市名が発表されると、「外国の地名のようだ」、「こんな田舎にはふさわしくない」、「恥ずかしい」など、町民からは当惑や抗議の声が上がり、協議会も再検討せざるを得なくなった。 
そして、協議会が合併の賛否を問う住民投票と新市名についてのアンケートを実施したところ、住民の反応は合併も地名も「ノー」であったという。

地名にはその地域の歴史や文化が染みついている。 
その地にふさわしい常態を表す「日本語」による漢字が、やはり適切で妥当だと思われる。 

小生の実家・田舎は「いわき市」と称し、ひらがな文字をつかっている、これも余り好きでは無く、感心しない呼称ではある。 
ともあれ、美浜町と南知多町は新市名について混乱が生じた為に合併まで影響を被り、名前のために合併そのものが頓挫してしまった形となったようである。

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