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紀行(46)北都・札幌 「開拓期」



札幌の開拓期、明治2年(1869年)に「北海道」と改称された・・、


裕次郎記念館のある、その名も築港駅前を過ぎ、朝里の町を通過する。
国道5号線は、さすがに小樽・札幌間の主要道路で交通量が極端に多くなってきた、別名「札幌国道」とも言うらしい。 札樽(さっそん)高速道と5号線、更に、海岸沿いを函館本線が行く。

小生はこの先、沿海道を行くため札幌方面の5号線とは分かれ、国道337号線を行くようになる。
海岸へ向かって下りてゆくような道で、鉄道を越えるとすぐに「銭函」という駅前に出た。
すぐ横にコンビニがあったので小休止をする。
それにしても、「銭函」とは縁起のいい名前で、拝みたい感じである。


銭函地区の銭函駅は海岸近くの平地にあり、駅の南に続く山裾に市街地が広がっていて、駅のすぐ西に銭函川とその河口がある。明治時代のはじめには、札幌へ向うのに海から至る交通上の要地であり、その後も小樽と札幌を結ぶ中継点として栄えた。 

現在の町の規模は、札幌や小樽と比肩できないが、駅舎のホーム改札口付近には「銭函」が吊るして飾られ、更にホームに大きな銭函が据えられているという。
駅舎は昭和6年築の古い建物だとか。


その縁起のよさそうな、「銭函」の由来を探ってみると・・、

ニシン漁で莫大な利益が上がっていた頃、和人(内地人)が付けたらしい。
幕末、幕府が計画した西海岸から東海岸への内陸道路の一部として、千歳街道が開かれ、この地が石狩への浜通りと内陸道路の分岐点となり交通の要所となった。 
このころから新しくゼニハコ、漢字で銭函という地名が文書に現れてくるらしい。

明治新政府となって、行政の中心が「札幌」に新設されることになり、その経営のため明治2年、開拓判官として「島義勇」(しまよしたけ)が銭函に仮役所を開いた。 
島義勇は銭函を、小樽の港と札幌との中間地点としての地の利を考えたのだろう。

ところで、銭函の地名の由来だが、これには諸説があるという。
昔、ニシン漁の漁業家や漁人、また開拓人の賃金支払のために「銭函」を置いてあったとか、他にニシンの豊漁でばく大な収入があり、浜に銭の函が積まれていたから、というものである。 

だがニシンの豊漁でゼニバコだけが景気が良かったわけではなく、小樽沿岸はすべて同じだったはずだが、いずれにせよ、だれが考えたのか縁起の良い地名であるには違いない。
時折、金運祈願や商売繁盛を願って、記念入場券を求める人が結構いるという。


「島義勇」について・・、


新政府の議定(ぎじょう:明治政府の官制で三職の一つ、皇族・公卿・大名の中から選任された。
三職は明治政府最初の最高政治機関で、他に総裁、参与がある)として鍋島の藩主・鍋島直正が蝦夷開拓督務に任命されると、島義勇を首席判官として蝦夷開拓御用掛に任命した。

東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ:公家、政治家)長官とともに農工民200名をともない先ず、函館に渡る。 
この時、島判官は札幌に本府を建設する特命があり、函館から陸路、磯谷、岩内、余市、小樽を経て10月に銭函に着いている。 
この間の後志の旅を『函館以北実ニ世界第一トモ可謂悪路ニテ、人馬共ニ足ヲ入ルル処無之』・・という、困難を極めた道行きであったという。

島判官は札幌に役所の建築が完成するまで、銭函から毎日馬に乗って出かけ指揮をとった。
まず札幌まで貫通できる道路の工事をすすめる。 
札幌周辺は大木が繁茂し見通しがきかず、途中には予想もしなかった湿地帯が広がっていたという。 

島判官は毎日銭函から乗馬で往復し、道路工事や建設の進みぐあいを見て指揮をした。
時には灯油も凍るような仮小屋で、夜通し熊よけの焚火をたきながら、人夫や犬と一緒にざこ寝の夜もあったという。

判官は、銭函に着任してから1ヶ月たって、ようやく雪の中を札幌に入り、組立式の役所、住宅、倉庫などの建築を急ぎ、北1条西1丁目に官宅を築き、集議局の看板を掲げて移転したという。

後年、島義勇は、明治7年江藤新平らと佐賀の乱をおこし刑死したが、北海道、そして札幌開発の祖といえる人物であった。 
現在、札幌市役所の1階のロビーに、札幌最初の開拓使判官として「島義勇」の像がある。


この時期、蝦夷地の正式名を「北海道」改称している・・、

当初、島義勇が目にした平原は(札幌)、豊平川一帯に広がる湿地帯が多く広がっていた。
もともと「サッポロ」は、現在の豊平川にアイヌの人々がつけた名で、アイヌ語で「サリ・ポロ・ペッ」(湿原が広い川)と称し、これが「札幌」の起こりともいわれる。

明治2年(1869年)に「北海道」と改称されて、開拓使が置かれ札幌本府の建設が始まる直前、判官・島義勇は円山の丘からはるか東方を見渡し、札幌の街づくりの構想を練ったといわれている。 


明治8年(1875年)、最初の屯田兵が入植し、人々は遠大な札幌建設計画に基づいて、鉄道を敷き、産業を興して、道都・札幌を築いている。
大正11年(1922年)の市制施行以来、近隣町村との度重なる合併・編入によって、市域・人口を拡大してきた札幌市は、昭和45年(1970年)には人口が100万人を突破し、国内でも堂々たる都市として認知され発展してきた。

初めて札幌を訪れた人は、「札幌は碁盤の目だけど、意外に分かりにくい。 同じブロックにあるのに住所が違う」。

又、条・丁目の住所のため、市営地下鉄の駅名も「北十二条」とか「西十八丁目」などと味気ないといい、東京だと「両国」、「赤坂」などの地名を聞けば、マチのイメージが湧くのだがと。

札幌っ子でも、「碁盤の目で味気ないし、面白みがない」と言う人が少なくない。 

これは原野にゼロから都市建設を行った名残とされ、道内では旭川や帯広でも同じ住所表示である・・。因みに、同じような町並みに京都が在るが、京都は1000年以上の歴史があり、町の諸所に神社仏閣が在る。
札幌の地番は、歴史の浅い都市の宿命かもしれない。

次回も北都・札幌「屯田兵と北大」     


紀行(46)北都・札幌 「屯田兵と北大」



クラーク博士の言葉、「Boys Be Ambitious(青年よ、大志をいだけ)」・・、


札幌市は一見内陸部に在るようだが、ほんの一部小樽や石狩市に海岸面を譲ってはいるものの、石狩湾に極めて近い海洋性の都市である。 
その石狩湾に近い札幌市街の北部、札幌市北区に札沼線(愛称・学園都市線)が北上しているが、この駅に「八軒」「新川」「琴似」「太平」「篠路」「拓北」といった駅名が続く。 
またこの地域に発寒(はっさむ)や屯田町というのもあり、いずれも札幌開拓期に因んだ名称である。

明治2年の廃藩置県で蝦夷地は「北海道」と改称されたが、明治政府は北海道開拓と北方警備のため、屯田兵(有事には軍隊となる開拓民)の募集を開始している。 
そして、札幌では明治8年頃から九州、四国の士族が発寒、琴似あたりに屯田兵として入植し開拓が始まっている。 「屯田町」というのは無論開拓当時の名称がそのまま残ったものであり、昔は、「篠路兵村」(しのろへいそん)とも呼ばれていたという。 

北海道に屯田兵制度が導入されたのは明治7年で、この制度は明治32年まで続けられたが、この間、屯田兵は、北海道の開拓に多くの貢献を果たし、札幌圏では琴似兵村、山鼻兵村、篠路兵村など四つの兵村を造ったといわれる。 
これらの入植、兵村が札幌市発展の大元になっているのである。

『 都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴の筵  尽きせぬ奢りに 
                 濃き紅や その春暮れては 移らふ色の・
・』


周知の人もいると思うが、北海道帝国大学の「寮歌」である。

北海道の開拓地といわれる屯田地区の東側、現、札幌駅の北側に広大な敷地を持つのが現在の北海道大学(略称、北大)で、1918年(大正7年)に創立されている。
その前進である「札幌農学校」は、1876年(明治9年)に設立されている。 

明治初期、最初の屯田兵が札幌郊外の琴似兵村に入地した時期に、北海道・札幌に置かれた最初の教育機関であり、札幌、ひいては北海道の開拓の歴史と密接に繋がっている。
初代教頭は、マサチューセッツ農科大学前学長のご存知ウィリアム・スミス・クラーク博士で、彼の言葉、「 Boys Be Ambitious(青年よ、大志をいだけ)」は、あまりにも有名である。
クラーク博士は、北海道開拓使の招きにより、札幌農学校の教頭として来道した際、ウイリアム・ホイーラー(土木工学、数学、英語学)とP・D・ベンハロー(化学、植物学、農学)の両名の教授を伴ってきた。


日本土木界の父・二代目のホイーラー教頭・・、


二代目のホイーラー教頭もクラークの精神を引き継ぎ、2期生からは新渡戸稲造(教育者)、内村鑑三(思想家)、広井勇(土木工学)、宮部金吾(植物学)らを輩出している。 

市街地中心部、札幌の観光名所の一つに、ご存知「札幌時計台」がある。 
札幌の歴史と共に歩んできた開拓当時の札幌の様子を、今に伝えているといわれる。
今では貴重な存在となっているこの建物は、札幌農学校の演武場として、1878年(明治11年)に建てられている。 
基本設計を行ったのは農学校教師ウイリアム・ホイーラーで、故国アメリカの工法が用いられており、正面の入り口真上に「時計塔」が据え付けられたのは創建から三年後のことであった。

明治36年には、時計台は札幌市に移管され、その後は図書館として使われるなど、市民により親しまれる存在となっている。 
周囲に響きわたるその鐘の音は札幌市民の生活と共にあり、1963年(昭和38年)制定された「札幌市民憲章」には、「わたしたちは、時計台の鐘がなる札幌の市民です」とうたわれ、1970年(昭和45年)には重要文化財の指定を受けている。  


ホイーラー教授の土木工学から・・、


因みに・・、ホイーラー教授から土木工学を学び、後に日本を代表する土木工学者となった広井勇教授がいる。
更に、広井勇教授から教えをうけた吉町太郎一氏や山口敬助氏がいる。

何れも、日本土木工学の先駆けとなった人物である。吉町氏は旭川のシンボル「旭橋」を、山口氏は「豊平橋」を設計している。旭橋は、札幌市の豊平橋、釧路市の「幣舞橋」(ぬさまいばし)と共に北海道三大名橋といわれたが現在では、この橋のみが架橋当時の姿を残している。 


旭橋は、旭川中心部と北部を繋ぐ市内交通の要衝である石狩川に架けられており、国道40号が通過している。 
美しい姿から旭川のシンボルとしても市民に親しまれ、橋の近隣にある常磐公園と共に河川敷では「旭川雪祭り」の会場となり、名物巨大雪像とともに一服の風画を演出している。

豊平橋は、石狩川の支流の豊平川にかかる橋で、国道36号を通す。
札幌から千歳・苫小牧・室蘭方面に向かう要所にあり、1871年に豊平川に最初の橋として架けられた。当初は美観溢れる三連アーチの橋で、北海道での名橋とされたが、度々洪水で流され、今はコンクリートの平橋に変わっている。 

又、幣舞橋は、釧路市の中心部北大通から対岸の南大通りまでをつなぐ釧路川に架かる橋で、橋梁には4体のブロンズ像が配置、川沿いには広い遊歩道も整備されていて、釧路観光名所の一つである。 
現在の橋は初代幣舞橋から数えて五代目として1976年(昭和51年)に建設されている。
又、吉町氏の設計した日本での橋は、一関市の「北上大橋」(北上川に架かる国道284号が通る橋で、最近、美しい新橋が架けられた)、東京都・墨田川に架かる「白髭橋」、岐阜市の「忠節橋」(国道157号の途中、岐阜市の長良川上に架かる橋である)などがある。


尚、白髭橋は、隅田川に架かる荒川、墨田、台東三区を結ぶ重要な橋であり、当時、橋場は江戸期の頃は風流で雅趣に富んだ土地柄で、大名や大店(おおだな:商屋)の寮(別荘)が隅田川河岸に並んでいたという。 
江戸名所図絵にも「都鳥ノ名所ナリ」と描かれ、付近の茅の原には水鶏が多く棲んでいたという。今も周辺には東京の歴史的名所が多数在る。
いずれの橋もアーチ状の鋼鉄の橋で、新旧はともかく何れも類似形の美しく景観溢れる橋であるとのこと。
屯田兵によって開拓が始まった北海道は、学術的には札幌農学校(北大)によって始まったといってもよく、特に国土を造る基礎となった土木工学は、その父といわれる「ウイリアム・ホイーラー」によって全国に波及していったといってもよい。

北大寮歌・『都ぞ弥生』 (明治45年寮歌)  詞・横山芳介 曲・赤木顕次

都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂ふ宴遊の筵
尽きせぬ奢に濃き紅や その春暮ては移らふ色の
夢こそ一時青き繁みに 燃えなん我胸想ひを載せて
星影冴かに 光れる北を
人の世の 清き国ぞとあこがれぬ

豊かに稔れる石狩の野に 雁遥々沈みてゆけば
羊群声なく牧舎に帰り 手稲の嶺黄昏こめぬ
雄々しく聳ゆる楡の梢 打振る野分に破壊の葉音の
さやめく甍に 久遠の光り
おごそかに 北極星を仰ぐ哉


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